長崎に原爆が投下されて79年となる9日、長崎市で平和祈念式典が行われ、鈴木市長は平和宣言で核保有国などに向けて「核兵器廃絶に向け大きくかじを切るべきだ」と訴えました。
一方、長崎市はことしの式典でイスラエルの駐日大使を招待しておらず、各国の駐日大使らが参加を見合わせる事態となりました。
長崎市の平和公園で行われた平和祈念式典には、被爆者や遺族、岸田総理大臣のほかあわせて100の国と地域の代表などおよそ2300人が参列しました。
午前11時2分に黙とう
式典では、この1年間に亡くなった被爆者などの名前が書き加えられた19万8785人の原爆死没者名簿が「奉安箱」に納められました。
そして、原爆がさく裂した時刻の午前11時2分に黙とうをささげ、犠牲者を追悼しました。
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岸田首相 被爆者の支援に取り組む考え強調
岸田総理大臣は9日午後、武見厚生労働大臣とともに、被爆者が暮らす長崎市の養護ホーム「恵の丘長崎原爆ホーム」を訪れ、入所者らおよそ40人を前にあいさつしました。
この中で岸田総理大臣は「みなさんが経験された悲惨な体験は繰り返してはならない。未来の世代に向けて風化させることなくしっかりと語りつないでいきたい」と述べました。
その上で「苦しい困難な時代を乗り越えてこられたみなさんの人生に思いを巡らせるとともに、施設で支える職員の方々の献身に心から敬意を申し上げる。政府としてこれからもしっかりと支えていきたい」と述べました。
このあと岸田総理大臣は「光明(こうみょう)」と書いた直筆の色紙を贈呈し「誰の人生にもいろいろな困難があり、苦しい時代があるが、どんな困難を前にしても明るい目標を持って努力したいと常々思っている。ともに前を向いて力強く頑張っていきたい」と語りかけました。
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「被爆体験者」代表も岸田首相との面会に初めて出席
平和祈念式典のあと、国から「被爆者」と認定されていない「被爆体験者」の団体の代表が総理大臣と初めて面会し、被爆者と認めるよう要望しました。
「被爆体験者」は爆心地から半径12キロ以内のにいながら、国が認定する地域ではなかったことから「被爆者」と認定されていない人たちで、医療費の助成などで大きな差が出ています。
長崎原爆の日には例年、「被爆者」の団体の代表者が総理大臣に要望を伝える機会が設けられていますが、ことしは初めて「被爆体験者」の団体の代表者も参加することになり、式典後に市内のホテルで面会しました。
この中で、被爆者団体と被爆体験者の団体の代表者はともに「被爆体験者」を「被爆者」として認定することや、日本が核兵器禁止条約に署名・批准し、多くの国々に条約への参加を呼びかけることなどを求める要望書を手渡しました。
続いて被爆体験者を代表して「第二次全国被爆体験者協議会」の岩永千代子会長が、原爆投下後に灰を浴びている被爆体験者の絵を紹介しながら、「私たちは被爆者ではないのでしょうか。被爆体験者も内部被ばくによる疾患にさいなまれています。私たちを被爆者と認めないのは、法の下の平等に反します」と訴えました。
これに対し岸田総理大臣は「つらい経験を話してもらい心から感謝する。被爆から80年がたとうとしていて、被爆体験者は高齢化している」と述べました。
一方で、核兵器禁止条約への署名・批准については「日本政府としては、核兵器禁止条約に参加していない核兵器国を動かすことを重視している。核兵器国を核兵器のない世界にどれだけ近づけることができるか、それが日本の責任だと思っている」と述べるにとどまりました。
首相と面会した「被爆体験者」団体の代表が会見
岸田総理大臣との面会のあと、被爆体験者の3つの団体の代表者が長崎市役所で会見を開きました。
この中で、岸田総理大臣が同席した武見厚生労働大臣に対してその場で合理的解決を指示したことについて「第二次全国被爆体験者協議会」の会長を務める岩永千代子さんは、「希望が見えたわけではないが『見え隠れした』という感じがした。亡くなった被爆体験者の人たちへの答えが何かしら出てきたと思う」と期待感を示しました。
「多長被爆体験者協議会」の会長を務める山内武さんは「1歩前進かなと思う。早く解決していただきたい。私も体調が悪いが支援してくれている人のおかげでここまで来ることができているので、あと少し頑張りたい」と話しました。
「長崎被爆地域拡大協議会」の会長を務める池山道夫さんは「これまで救済の要望をいちばん跳ね返してきたのは厚生労働省なので、総理みずから指示してくれたことはよかったし、少し期待したいと思っている」と話していました。
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イスラエル人とパレスチナ人の女性 平和祈念式典に参列
《各地で黙とう》
長崎の原爆資料館 日本語と英語で黙とうを呼びかける館内放送
観光名所でも市民や観光客が黙とう
市内を走る路面電車「黙とうのため停車します」
長崎市内を走る路面電車の中でも、原爆がさく裂した時刻の午前11時2分にあわせて乗客が祈りをささげました。午前11時2分が近づくと市内を走る路面電車の車内では「黙とうのため停車します」というアナウンスが流れました。
そして電車はいったん停車し、乗客が静かに祈りをささげていました。祖父が被爆した長崎市の高校3年生は「世界にある核兵器を徐々にでも減らしていければいいという思いで祈りました。
被爆者が少なくなっていく中で、私たち若い人が伝えていかなければならないと思います」と話していました。
長崎市の74歳の女性は「原爆が落ちた時のことを思えば、悲しさや悔しさで手を合わせずにはいられませんでした。8月9日は平和を改めて考える日だと思いますし、原爆はもちろん、戦争は絶対にしてはいけないということを新たに自分の頭に叩き込む時だと思います」と話していました。
G7各国の駐日大使ら 参加見合わせ
米駐日大使ら 都内で原爆の犠牲者を追悼
米国務省報道官「イスラエルの大使招待が重要だと考えた」
長崎原爆の日の平和祈念式典について、アメリカのエマニュエル駐日大使は、イスラエルを式典に招待しなかったのは政治的な決定だとしたうえで、自身も欠席する意向を明らかにしています。
これについてアメリカ国務省のミラー報道官は8日の記者会見で「われわれは、ほかの国々の大使が招待されているのだから、イスラエルの大使も招待されることが重要だと考えた。いかなる国も式典に招待されないことによって特別扱いされるべきではない。それがエマニュエル大使の行動の理由だ」と説明しました。
一方で、ミラー報道官は、エマニュエル大使が6日に広島市で行われた平和記念式典には出席したことに触れて「われわれの立場や日本に対する敬意ははっきりと示されている。それは大使が1つの行事に参加しないということをはるかに超えるものだ」と述べて、原爆の犠牲者の慰霊をめぐるアメリカの立場や日本への敬意に変わりはないという認識を示しました。
岸田首相「外交団の出席など含めコメントする立場にない」
林官房長官「出席者についてコメントする立場にない」
《朝早くから祈りをささげる人たち》
平和公園で祈りをささげる人たちは
長崎市の平和公園では9日の朝早くから平和祈念像の前で祈りをささげる人たちの姿がみられました。
原爆で祖父母とおじを亡くし、母も被爆した諫早市に住む被爆2世の73歳男性は「みんな仲よく、平和な世の中になってほしいと思う。母は高齢で入院していて、祈りに来ることができない。被爆2世として伝えていかなければならないことはあると思うが、限界を感じている。いまだにウクライナなどでも争いが起きて多くの人が亡くなっているし、人類は反省がないのかなと思う。アメリカやイギリスの大使は今回長崎に来ないと聞いたが、本当に平和を願っているなら関係なく来たほうがいいと思う」と話していました。
被爆者の母をことし亡くした長崎市の67歳女性は「母親が亡くなったことを機に初めて来ました。去年、初めて被爆体験を詳しく聞いて、もっと元気な時に聞いておけばよかったなと後悔しています。平和は大事だし、この歳になって子育てをして家庭を持って、普通の日常生活のありがたみがよくわかるようになりました。若い人に母の気持ちを引き継いでいかなければならないと思います」と話していました。
被爆した母親がことし6月に99歳で亡くなった長崎市に住む71歳の男性は「被爆した母親が亡くなったのでお参りにきました。母親は『被爆して亡くなってしまったいとこを背負って歩いたのが忘れられない』と話していました。その悲惨な光景を考えただけでつらいです」と話していました。
また、大阪から嫁いだ男性の妻は「夫のお母さんが戦争について話すときに『みんな仲よくね』とずっと言っていたのを強く覚えています」と話していました。
祖母が広島で被爆したという長崎市の49歳の男性は「今、ウクライナやガザ地区で戦闘が続いていて、平和が一番大事にされるべきなのに軽視されている気がしている。祖母は被爆者で、79年前のこともこれまで聞いてきた。被爆者から学んだ、被爆者から声を聞いた私たちが語り伝えていくことが必要だと思う」と話していました。
母親が入市被爆したという長崎市に住む82歳の女性は「母親や亡くなった主人など家族親戚に被爆した人が多くいるが、ほとんど亡くなってしまった。家族は、被爆体験を話すのを嫌がっていたが、体験を伝えていくには、悲惨な状態を知る人が発信するのが大事だ」と話していました。
長崎市に住む62歳の男性は、ここ10年あまりは毎年、平和公園を訪れて祈りをささげています。
男性は「何年たっても同じことの繰り返しで、いろいろな思惑が交差して核廃絶が難しくなっているのかなと思う。(各国の大使は)損得を抜きにして長崎に来ていただきたい」と話していました。
広島県から来たという54歳の女性は「日本の平和をなんとかして世界に広めてほしいです。来年はこの日をみんなで祝福できればいいなと思います」と話していました。
母親が入市被爆したという長崎市に住む82歳の女性は「母親や亡くなった主人など家族親戚に被爆した人が多くいるが、ほとんど亡くなってしまった。家族は、被爆体験を話すのを嫌がっていたが、体験を伝えていくには、悲惨な状態を知る人が発信するのが大事だ」と話していました。
爆心地公園で手を合わせる人たちは
長崎市の爆心地公園では午前5時すぎから手を合わせる人の姿が見られました。
4歳のとき、爆心地からおよそ3.5キロの地点で被爆した市内に住む83歳の男性は「被爆者の1人として手を合わせに来た。一家6人は助かったが、山の上に落下傘のようなものが落ちてその次はもう吹き飛ばされていた」と振り返りました。
そのうえで「絶対に戦争はだめだと訴えたい。生き残っている被爆者としてなんとか伝えていかなければならないと思っている」と話していました。
母親が被爆したという時津町に住む被爆2世の75歳の女性は「20年以上この朝の時間に来ている。母が被爆して当時、生まれていた子ども3人が全員亡くなった。その後、私が生まれて元気に育ててもらったが、2歳上の姉は病弱で、母からは戦後に髪が抜けてつらくて大変だったと聞いている」と話していました。
そのうえで「被爆者と一緒に活動しているが、世界はなかなか核廃絶の方向に向かずもどかしい思いだ。全世界の人に長崎の惨状を自身の目で見てほしい」と話していました。
広島県に住む62歳の男性は「広島に住む私としては長崎を最後の被爆地にしたいという思いが強いです。世界各地で戦争が起きて核兵器使用も辞さないという指導者もいる中で、きょうは改めて安らかにお眠りください、過ちは繰り返しませぬからという思いを伝えました」と話していました。
教会のミサでも原爆犠牲者に祈りささげる
長崎市のカトリック教会浦上天主堂では午前6時からミサが行われ、参列者が原爆の犠牲者に祈りをささげました。
息子と訪れた43歳の長崎市の女性は「被爆した祖母は、身近な人が亡くなってつらい思いをしていて、『思い出すだけでもつらい』と話していました。もう二度とあってはいけないことだと思います」と話していました。
また10歳の息子は「当時の被害は甚大でよくわからないところもありますが、原爆はいけないと思います。僕たちにできることはないかもしれないけれど、今はお祈りを頑張るしかないと思います」と話していました。
当時4歳で爆心地から2.5キロ離れた場所で被爆した83歳の女性は「目をさすような光だけ覚えています。夫の家族は9人亡くなりました。永遠の安息を願っていつも祈っています。若い人たちにも原爆の悲惨さをしっかり受け止めて考えてもらいたいです」と話していました。
そして、世界ではいまだに戦争が続いていることについて「悲しいです。本当に平和を願っていれば戦争は終わるはずです。みんなが平和を願う心が強ければ乗り越えられると思います」と話していました。
カトリック信者の墓地でも
爆心地からおよそ1キロほど離れた長崎市浦上地区のカトリック信者の墓地には9日朝早くから訪れた人が静かに祈りをささげました。
原爆で祖父母を亡くし母親も被爆した長崎市の75歳の男性は「戦争がなければこういうことはなかっただろうと思います。世界各国で戦争があるけど早くなくなり、若い人たちが亡くなることがないようになってほしいです」と話していました。
2歳のときに広島で被爆した81歳の女性は、長崎市で被爆し、13年前に亡くなった夫の墓に花を手向け、静かに祈っていました。
女性は「主人は2歳の時に長崎で原爆にあったそうです。毎年のことだから、お祈りするのが私たちの宿命だと思います。孫に『お墓参りに行ってきました』とメールをしてその姿を見せたいと思います。原爆、戦争がなくなってほしい」と話していました。
島原市に住む69歳の女性は、96歳の父親が被爆者で原爆で家族7人を亡くしました。
女性は「ここに来て刻まれた名前を見ると自分のおじさん、おばさんなんだなとつらい気持ちでいっぱいです。父は原爆が投下された数日後に長崎に入り、兄弟を探して1人でみとったと聞きました」と話しました。
父親はこれまで原爆の話は一切しませんでしたが、数年前に頼んで手記を書いてもらったということで「見聞きしていたより現実味を帯びていて、ことばにはできない思いをしたんだなと思いました。いま、高齢になって原爆を知っている人や伝える人が少なくなっているので、父から聞いたことや手記で読んだことを伝えていかないといけないと思います」と話していました。
爆心地公園では高校生が「人間の鎖」で平和誓う
9日午前7時前、長崎市の「爆心地公園」には、核兵器の廃絶を求める署名を国連に届ける活動を行う「高校生平和大使」など県内外からおよそ100人の高校生が集まりました。
高校生たちは、まず原爆の犠牲者に黙とうをささげたあと、爆心地を示す「原爆落下中心地碑」に花を手向けました。
このあと、全員で碑の周りを取り囲むように手をつなぎ「人間の鎖」を作りました。
そして、参加者を代表して岩手県の釜石高校の佐藤凛汰朗さんが「私たち若者が被爆者、戦争体験者の方々から平和のバトンを受け継ぎ、世界にそして未来につないでいきたいと思います。核も戦争もない世界の実現を目指して、今後も努力していくことを誓います」と宣言しました。
参加した長崎県の高校生平和大使で、被爆3世の大原悠佳さんは「全国の高校生が集まって核廃絶への思いを深められた。被爆者の体験を聞けることがとても貴重になっていく中で、私たちは長崎で生まれ育ったものとして被爆者の存在を忘れられないように、被爆者の声が届くよう活動していきたい」と話していました。
被爆した小学校で平和について考える集会
爆心地に近い長崎市の小学校では平和について考える集会が開かれ、児童たちが平和への思いを新たにしました。
長崎市の爆心地からおよそ500メートルの場所にある城山小学校の前身、旧城山国民学校では、原爆で児童や教師、1400人以上が犠牲になったとされ、敷地内に残る旧校舎は原爆の被害を伝える「被爆遺構」のひとつとして国の史跡に指定されています。
9日は、全校児童およそ550人と遺族などが出席して体育館で集会が開かれました。
集会では、はじめに5年生が平和について学んだ内容を発表し、日本が戦争に至った経緯や、旧城山国民学校での原爆の被害などについて説明しました。
このあと、各クラスの代表が「やさしい気持ちで助け合い仲よくします」などと平和への思いを書いた標語をステージの上で掲げると、全員で声に出して宣言しました。
続いて児童たちが、自分たちで折った折り鶴や海外の子どもたちから届けられた折り鶴をステージ上に飾って原爆の犠牲者を悼みました。
また、小学校で歌い継がれてきた歌「子らのみ魂よ」を平和への思いを込めて合唱しました。
参加した4年生の男の子は「戦争の悲惨さや平和の大切さを伝えたいと思った。みんなと仲よくして協力することが大事だと思う」と話していました。