自衛隊の明記 国会中に表明すべきだった(2024年8月11日『読売新聞』-「社説」)
緊急事態条項の創設に向けて与野党で積み重ねてきた議論に、水を差すことにならないか。
首相は会合で「憲法改正を言うだけの時代は終わった。いかに実現するかだ」と述べた。
自民党は自衛隊の明記について安倍内閣時代の2018年、現行の9条を維持しつつ、「実力組織として、首相を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する」と記した案をまとめている。自衛隊「違憲論」を 払拭ふっしょく する狙いがある。
首相としては、安倍内閣時代の案ならば、党内のとりまとめも容易だと考えたのだろう。来月の党総裁選をにらみ、保守票を取り込む思惑も働いたのではないか。
一方、衆参両院の憲法審査会では今年、緊急事態条項について与野党が踏み込んだ議論を行ってきた。解散や任期満了で衆院議員が不在中に、大規模災害などが起きた場合でも対応できるよう、議員任期を延長する内容だ。
現行憲法にも緊急時の規定として、参院の緊急集会が定められているが、予算や法案の制定、条約の批准・承認といった様々な機能を緊急集会に委ねるのは現実的ではない。憲法に緊急事態条項を設けることは理にかなっている。
岸田文雄首相は7日の自民党憲法改正実現本部で「緊急事態条項と併せ、自衛隊明記も国民の判断をいただく」と述べ、9条改憲に強い意欲を示した。自民は緊急事態条項を先行して進める方針だったが、岸田首相は9条への自衛隊明記も改憲の国会発議に含めると踏み込み、8月末までの論点整理を指示した。
9月の総裁選をにらんだ保守層取り込みの狙いが透けて見える。憲法を権力掌握の材料に利用し、国民が緊急性を感じていない改憲論議を扇動しようとする危険な政治だ。「解釈改憲」による自衛隊の変質が進んだ中、平和憲法を変えた先に起きる事態を冷静に見極める必要がある。
自民は今年の通常国会に、改憲勢力の足並みがそろう「緊急事態時の国会議員の任期延長」を軸とした改憲原案を提出する構えだった。だが裏金事件への批判が吹き荒れたこともあり、慎重意見を押し切って進めることは困難とみて原案提出を見送った。
共同通信社が今年の憲法記念日を前に実施した世論調査で、改憲の国会論議を「急ぐ必要がある」は33%にとどまり、「急ぐ必要はない」の65%と差が開いた。改憲の進め方は「慎重な政党も含めた幅広い合意形成を優先するべきだ」が72%に上る。
琉球新報も加盟する日本世論調査会が今月3日にまとめた平和に関する全国世論調査では、創設70年となった自衛隊の今後の在り方について「憲法の平和主義の原則を踏まえ『専守防衛』を厳守するべきだ」と回答した人が68%を占めた。
それにもかかわらず、9条への自衛隊明記に踏み込んで改憲発議を促した岸田首相の発言は唐突であり、国民全体の関心とずれている。首相の交代論が公然と噴き出す中で、9条改正を重視する保守層の歓心を買うための言動だとすれば、「国民を置き去りにした、政治家本位の改憲議論」(憲法学者の髙良沙哉沖縄大教授)の批判を免れない。
政権延命の思惑が露骨だ。国の最高法規をもてあそんでいると見られても仕方がない。
首相は総裁任期中の改憲実現を目指すとしながらも、9条で踏み込んだ発言はしてこなかった。9月末の任期満了間近の表明は唐突な印象が否めない。支持率が低迷し党総裁選での再選に展望が開けない中で、党内保守派にアピールする狙いがあるとの観測がもっぱらのようだ。
熟議と幅広い国民的合意の形成が前提の憲法改定が、首相個人の政治的な都合で進められることなどあってはならない。
首相は「いついかなる時でも国民の命を守るという国家の最も重要な責務をこの国の最高法規の中にしっかり明記することは大変重要な課題だ」と述べた。
だが与党内で公明党に慎重論が強く、進展はなかった。
国民の賛同を得やすいテーマだと推進側はみているようだ。だが憲法には参院の緊急集会の規定がある。任期延長が時の政権による恣意(しい)的な運用で行使され、国民の投票権が制限される恐れなど問題は少なくない。
さらに9条改定となれば、戦後の平和国家としての針路が根底から変質しかねないテーマを国民に問うことになる。9月の総裁選日程をにらんだ月内の論点整理など拙速の極みだろう。
首相は改憲が「先送りできない課題の最たるものだ」と言うが、なぜ急ぐべきなのか多くの国民が納得できる説明はない。
9条に自衛隊を明記する改憲案は2017年に、当時の安倍晋三首相が自衛隊の違憲論争に終止符を打つとして唐突に表明した。自民党は翌年、緊急事態条項を含む4項目の条文案を取りまとめたものの、国会への提出に至らないまま安倍氏は退陣した。
ここへきて、国会での改憲の議論は緊急事態時の議員任期の延長に絞られ、9条の改定は棚上げされた形だ。岸田氏は、保守派の結集軸だった安倍氏の主張に立ち返る姿勢を示して、支持をつなぎ留めようとしているのだろう。
自衛隊の任務や権限は何も変わるわけではないとした安倍氏の言葉とは裏腹に、自衛隊を明記する改憲が重大な危うさをはらむことを見落とすわけにいかない。徹底した平和主義を掲げる9条が実質を完全に失いかねない。
自民党の条文案は、現行の9条を残した上で「9条の2」を新たに設け、自衛隊と自衛権を規定した。「必要な自衛の措置をとるため」との文言は、必要最小限度の実力組織という制約を取り払い、戦力の不保持を定めた9条の意味を失わせる恐れがある。
だが進め方が緩慢だ。首相の節目発言は年内の改憲発議を目指さないようにも聞こえる。
同本部の会合では、傘下のワーキングチームの報告が示された。報告は、自衛隊明記▽緊急事態対応▽合区解消・地方公共団体▽教育充実―の改憲4項目について早急に取り組むべき論点と指摘した。古屋圭司本部長は「公明党や他党とも水面下で交渉する」と語った。水面下だけでは足りない。協議の場を設け話し合いを始めてほしい。
南海トラフ地震などの大規模災害、台湾有事に伴う日本有事の懸念が高まっている。国民を守るため緊急事態条項創設は急務だ。現憲法は国防の明示的な規定がない欠陥がある。防衛に足かせをはめる憲法9条2項の削除と、軍の規定が改正のゴールだが、まず自衛隊を憲法に明記する意義は大きい。
同本部はこの夏、参院の緊急集会について論議した。だが、備えるべきは、緊急集会では対応できなかったり、国会自体が開けなかったりするような国難だ。緊急政令、緊急財政処分の権限を内閣に一時的に与える規定がなければ国民を救えなくなる。自衛隊明記は、9条またはその直後の条文(9条の2)として書き込むべきである。