目下、炎上中のパリ五輪開会式。確かにチャレンジングな催しが多かったが…… Photo:JIJI
パリで開催されているオリンピックでは、7月26日に催された開会式が大変な物議を醸していて、スポンサーが撤退するまでの事態に発展している。東京五輪が引き合いに出されて批評されてもいる。何がいけなかったのか。そして、この騒動をいったいどう考えるべきか。(フリーライター 武藤弘樹)
● 目下炎上中のパリ五輪開会式 当初は好意的な声が多かったのになぜ?
当初国内では賛否両論せめぎ合っていたが、“否”の方が徐々に優勢になってきたように見えるパリ五輪の開会式。ざっくりとした印象では「マスコミが“賛”、SNSが“否”」で、SNSが勢いを伸ばしたのであった。
とにかくパリ五輪では開会式が話題になり、つられて「東京五輪の開会式」までもがXでトレンド入りした。「直近の五輪開会式」として、または「よくなかった開会式」として、パリと東京がこのタイミングで何かと比べられているわけである。
オリンピックといえば言うまでもなくスポーツの祭典であり、メインはスポーツの方にあるはずなのに、そこに付随しているセレモニーの方で大きく足を引っ張って大会全体にケチがついてしまうのは残念なことである。
開催都市および開催国が、数十年、あるいは百年に一度に訪れるその機会を「自分たちの手で素晴らしいものにしよう」「自国のアピールの場にしよう」「このチャンスに国ごと発展してしまおう」と様々な思惑を胸に、激しく躍起になる道理はよくわかるものの、その意気込みが如実に反映される開会式において、外し方の度が想定の範囲および許容範囲をはるかに超えてしまえば、多くの人が「もうちょっとどうにかならなかったのか」と感じてしまうのは無理からぬことである。
● 何が炎上を招いたか? 賛否それぞれの声
なぜパリ五輪開会式は炎上したのか。広く報じられているのでご存知の方も多いだろうから簡単に書くに留めるが、韓国を「北朝鮮」と間違って紹介した一幕や五輪旗の上下逆さ掲揚など、いくつかの初歩的かつわりと重大なミスの他、名画『最後の晩餐』を連想させる構図でのやや性的な描写や、マリー・アントワネットの生首が歌う演出などが多方面の反感を買った。
世界各地のいくつかのキリスト教団体は特に『最後の晩餐』について激怒していて、LGBTQへの理解促進がねらいだったはずの演出に対しては一般人のみならずLGBTQ関係者からも「不適切。社会の、LGBTQへの理解を退行させるようなことをしないでほしい」と批判の声が上がっている。また、個別の演出についてではなく、全体的なその“攻めた”姿勢について、「はたしてこれを、世界中が注目する五輪の開会式でやる必要があったのか」と疑問視する声も聞かれる。
なお、出演者には誹謗中傷に留まらず脅迫まで行われているようで、痛ましい限りである。
一方、開会式をポジティブに捉え、称賛した意見には以下のようなものがあった。
「過激ではあったが、チャレンジングで、その姿勢が素晴らしい」
「パリ五輪開会式には何かを表現しようとする意欲があり、東京五輪にはそれがなかったのが残念」
「歴史ある街並みを活用した、パリにしかできない美しい開会式」
演出の内容そのものを「面白かった」とする評はあまり聞かれず、主に「尖っていて良い」など“創造と表現に向き合う姿勢”という点で好評だったのが全体的な印象である。
なお、先に述べたが、こうしたポジティブな評価は開会式直後に主にマスコミを中心に見られた。マスコミ発信の情報となると、中立なフリをして実は裏に隠されている思想・主義が警戒される向きもあろうし、情報を受け取る側の人は賢明な判断をするためにその警戒の姿勢を持つことこそが肝要である。
しかし「むやみに否定から入らず、褒めから入る・いいところを探そうとする」という、物事に対する基本的な構えは何においても必要だ。
だからマスコミが「パリ五輪開会式最高」と言っているのを聞いたとき、私などは(マスコミ側の人間でありながら)反射的にアンチマスコミのスイッチを入れそうになるのだが、本当はきっとその必要はなく、マスコミが偏りがちなことを念頭に置きながら、しかし「褒め」から入る美徳を褒めつつ、「どのような言い分かを話半分で聞き流す程度」が心がけられればいいと考えている。
それで今回は「とにかく尖っていたところがよかった」とマスコミが言っているようなら、「尖っていた部分はたしかに評価できるけど、その点が多くの人に受け入れられなかったのだね」と、次になる段階に議論を進めることができるわけである。
● 過去の芸術プログラムはおおむね好評 パリと東京がみっちり批判された理由
今でこそ様々な利権や思惑が錯綜する伏魔殿がごとき一面を持つに至ったオリンピックだが、出発点は「スポーツを通じた平和の祭典」である。
開会式で行われるこうしたショーは、1996年版オリンピック憲章内では「芸術プログラム」と称され、開会式の中で参加者が見るものとして位置づけられていた。上記のロス五輪はオリンピックの商業化路線への転換点となったとみなされており、芸術プログラムも上記のロス大会以降、一層の気合いを入れて制作されるようになった。
そこで夏季五輪の開会式をざっと眺め渡してみると、ハト焼死(1988年ソウル)、当て振り(2000年シドニー、発覚は2008年)、口パク(2008年北京)などのアクシデントや騙しは散見されるのだが、開会式全体の評判はおおむね芳しい。各都市、自国の歴史などをダンスや演劇などに乗せて紹介するスペクタクルは、開催都市間で予算の違いこそあれ、どれも見応えのあるものに仕上がっていた。
すると、みっちり批判にされた開会式といえば、記憶の新鮮さも手伝ってやはり東京とパリが思い出されるのである。
2020東京五輪の開会式は、主要なチームや関係者が幾度も解散、解任、辞任となり、また出演者の直前の出演辞退があったりして、事前から混迷を極めた。迎えた本番、ピクトグラムやMISIAさんの『君が代』などは好評だったが、コロナ禍での開催という難しさもあって、開会式全体としては「地味」や「まとまりがなく、何を伝えたいかわからない」といった批判が寄せられた。
一方今年のパリ五輪開会式は、しっかり準備をして、万全の態勢で臨まれた。当日は天候に恵まれず、ダンサーのストライキやTGV設備放火といったトラブルも相次いだが、それでも芸術プログラムは予定通り敢行された。その、満を持して披露された渾身のプログラムが炎上して今に至る。
開会式の運営が、どれだけ炎上したとしても開き直って「あれはああいうエンターテイメント」と言い切ってしまえば、相応の説得力が備わったかもしれないが(その場合フランスへの信頼が大きく損なわれるなど、失われるものも多かったろうが)、実際は現在IOCが前代未聞の謝罪や開会式動画削除などの火消しに動いているので、「一旦は自身のやらかしを認めて傷を広げない守りの方針」を取るようである。
● 「大学生の文化祭並み」 クリエイティブへの挑戦が招いた「やらかし」
私は初めてパリ開会式を目にしたとき、真っ先に「大学生が文化祭でやらかしてしまっている様子」を連想した。攻めて尖った表現ではあるのだが、尖りすぎたがゆえに排他的となり、ごく一部にしか刺さらないジョークは、刺さらない人から見ればただただ居たたまれない。
「その若気の至り的な創作を何も文化祭という場でやらなくていいのに」と思うのだが、大学生は文化祭という場だからこそ発奮してそれをやったわけだし、私自身、大学1年のときにクラスの自己紹介で笑いを取りにいって失敗し、あげく留年したやらかしを経験しているだけに、パリ開会式にみなぎっていた「表現したい欲求」と「それが空回りする怖さ」が痛いほど理解できるのである。
しかし、大学生をはじめとする若者の勢いは財産であり、そこから生まれて評価を受けるものもあるし、その勢いの中での失敗こそが糧という財産であったりするから、「若者・挑戦者のやらかし」は必ずしも悪いというわけではない。
とすると、パリ開会式のやらかしは、芸術の国として世界を牽引してきたフランスだからこそのものといえる。クリエイティブへの挑戦がなければあり得なかった炎上である。
ここまでくると、その攻めの姿勢をどう捉えるかは、はっきりいってもう完全に個人の主観の領域である。公式然とした自国の歴史紹介スペクタクル芸術プログラムを退屈だと感じていた人にとっては、パリ開会式の尖り感は新しい風を吹かせようとする試みとして評価されるであろう。失敗のリスクを負いながら挑戦する姿勢こそが真のクリエイターとも言え、これも評価に値する。
● 超えてはいけないボーダーラインか 見習うべきチャレンジか
筆者個人は、パリ開会式を評価できない。「平和とスポーツの祭典」五輪開会式というこの上ない公共性のある場にあの演出は適切でなかったと、少なくとも制作者は(挑戦するクリエイターであったとしても)大学生でなくプロなのだから事前に気づいてほしいと思ったが、そう強く感じるのも私自身がやらかしの経験者で、パリ開会式を通して自分の若い過ちを見せつけられているような気分になるからかもしれない。
おそらくひとつ言えることは、今後の五輪開会式制作に際しては、この2024パリ開会式が必ずや参考にされるであろうということである。それは「超えてはいけないボーダーライン」としてなのかもしれないし、「見習うべきクリエイティブへの姿勢」なのかもしれない。
パリパラリンピックの開会式は8月26日に予定されている。公式サイトには「史上空前」と銘打たれていて、開会式のプレビュー動画を見たところ、色とりどりのライトアップが溢れるかなり派手なものとなりそうな印象である。不穏な要素は見当たらなかったが、果たしてどうなるのか。五輪の競技を応援し、楽しみながらその日を待ちたい。
武藤弘樹