相模原市知的障害者施設で19人が殺害されてから8年となった26日、施設で追悼式が行われました。

2016年7月26日、相模原市にある県立の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害されました。


事件から8年となり、現場に再建された施設では追悼式が行われ、遺族などおよそ90人が参列しました。

はじめに黒岩知事が「お亡くなりになった方々、ご家族を失われたご遺族の皆さまの気持ちを思うと、今も強い怒りと深い悲しみがこみ上げます。障がいを理由に差別や虐待されることなく、安心して暮らすことができる社会を実現するため、今後も全力で取り組みます」と式辞を述べました。

続いて黙とうが行われ、参列した人たちは19人を悼みました。

また、事件の前から園で暮らしていた奥津ゆかり(55)さんが、入所者を代表して「私は津久井やまゆり園の洗濯場で、頑張って働いています。私には夢があるからです。小さい頃から過ごした茅ヶ崎市で暮らすことが、一番の目標になっています。皆さん、これからも天国から私や津久井やまゆり園のみんなのことを見守ってください」と追悼のことばを述べました。

このあと参列者は鎮魂のモニュメントの前に移動し、遺族が希望した10人の名前が刻まれた献花台に、花を手向けて手を合わせていました。

園では一般の献花も受け付けられ、被害者の知人や近くの人など多くの人が訪れていました。

永井園長「自責の念ずっと変わらず」

追悼式のあと、施設を運営する「かながわ共同会」の山下康理事長と「津久井やまゆり園」の永井清光園長、それに入所者を代表して奥津ゆかりさんが記者会見を開きました。

左:山下康理事長 中:奥津ゆかりさん 右:永井清光園長

山下理事長は「19人のことを思うとつらいですが、受け止めていかないといけないと思います。複数の人が園の外に出て地域に移っていて、新しい取り組みが進んでいると実感します。これからも意思決定支援の取り組みを進めながら、一人ひとりの想いを実現するために全力をあげてやっていきたいです」と述べました。

永井園長は「私の中ではこの8年間は時間が止まったままで、自問自答が続いています。津久井やまゆり園で働いていた時に植松死刑囚とも一緒に仕事をしていて、事件を防ぐことができなかったというところで自責の念に駆られています。その気持ちはずっと変わりません」と述べました。

奥津ゆかりさん 園を出てグループホームでの生活を目指す 

奥津さんは今後、園を出て、グループホームでの生活を目指しているということで、「グループホームでは職員さんたちと会話したり、触れ合ったりしながら毎日を過ごしています。大変なこともありますが、友達を増やして仲良く生活できるようにしたいです」と話していました。

神奈川県 黒岩知事「当事者目線の障害者福祉 実現に全力」

追悼式のあと、神奈川県の黒岩知事と相模原市の本村市長が記者会見しました。

黒岩知事は「こんなことを二度と起こしてはいけないという思いの中で、ずっと向き合ってきた8年だった。しかし今、県立の直営施設であっても、いまだに虐待と言わざるをえないような事実が浮かび上がってきている。根本的な改革ができないかぎり、あのような事件が絶対起きないと自信を持って言えない。当事者目線の障害者福祉といったものを実現するために、これからも全力を挙げていかなければならない」と述べました。

本村市長は「利用者の皆様やご家族の皆様にしっかり寄り添って聞き取りをする中で、表現がうまくできないという方もいらっしゃる。対話をしながら気持ちを聞いて、地域移行の受け皿を自治体としてこれからしっかりと増やしていかなければならない」と述べました。

被害者のかつての担任「きょうという大切な日を忘れないで」 

神奈川県平塚市から献花に訪れた教員の60代の男性は、かつて勤務していた養護学校で事件で亡くなった被害者の担任を務めていたということです。

男性は毎年、献花に訪れていて、「被害者の生徒とは職業訓練の実習先に一緒に行くなど思い出がたくさんあります。明るい生徒で大好きでした」と話していました。

一方で、「事件からたった8年しかたっていないが風化を感じているのでこれから若い先生たちにどう伝えていくかが課題です。きょうという大切な日を忘れないでほしい」と話していました。

きつ音の症状がある女性「ショックが大きかった」 

都内から献花に訪れた30代の女性は「事件は年々風化している印象があり、亡くなられた方の死をむだにしない、少しでもいい世の中になってほしいという思いでここに来ました」と話しました。
女性にはきつ音の症状があるということで、「事件の当時、『話せない人を殺した』という話をしていて、もしあの場にいたら自分も被害にあっていたのではないかと思いショックが大きかったです。障害に関するニュースはあまり興味を持たれないので、周りの人と共有したいと思います。いつも一人で献花に来ているので、来年は誰かと一緒に来たいです」と話していました。

都内から献花に訪れた10代の男子大学生は「事件から8年たって世間で風化していっても、亡くなられた方がいるという事実を伝えていかなければという思いで献花しました」と話しました。
そして、「障害者への偏見は根強くあるので、徐々にでも共に生きるという姿勢が広がっていってほしい」と話していました。

神奈川県大和市から献花に訪れた60代の男性は「事件に興味を持つ人が少なくなり、忘れられてしまったのではないかと思うこともある。障害のある娘がいるので、少なくとも自分は月命日に訪れるなど、向き合い続けていきたい」と話していました。
また、障がい者に関する報道について「いまだに障がい者が排除されていくような事件が起きているし、この事件についての報道も鎮静化したように感じるので、これからも細かく報道を続けてほしい。誰もが安心して住める社会になってほしいと思う」と話していました。

献花に訪れた70代の男性は「事件があった当時、都内の障害者福祉施設で働いていたので、当事者なのに何もできなかったという思いがあって毎年、来ています。『自分にできることをやっていきます』という思いを込めて献花しました」と話していました。

8年前の事件とは 

事件は8年前の26日、7月26日の未明に起きました。

相模原市にある神奈川県の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所していた人たちが次々と刃物で刺されて19人が殺害され、職員を含む26人が重軽傷を負いました。

事件の直後、施設の元職員の植松聖死刑囚(34)が、近くの警察署に出頭して逮捕され、その後、起訴されました。

植松死刑囚は逮捕直後から「障害者は不幸しか作らない」とか「意思疎通できない障害者は殺そうと思った」などと、差別的な主張を繰り返しました。

4年前の判決で、横浜地方裁判所は「施設での勤務経験から重度障害者は不幸であり、その家族や周囲も不幸にする不要な存在であると考えるようになった」と指摘しました。

そのうえで「19人もの命を奪った結果はほかの事例と比較できないほど、はなはだしく重大だ」として、死刑を言い渡しました。

弁護士が控訴しましたが本人が取り下げ、死刑が確定しましたが、おととし4月に、本人が横浜地方裁判所に再審=裁判のやり直しを請求しました。

横浜地方裁判所は、去年4月にこれを退ける決定を出しましたが、弁護士によりますと、死刑囚はこれを不服として即時抗告しました。

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遺族が語る8年 「命の大切さ」を伝えたい 

事件から8年。

19歳で犠牲となった美帆さんの母親は、1通の手紙から始まった交流を支えに、いま「命の大切さ」を伝えていきたいと話しています。

母親によりますと、美帆さんは自閉症で重い知的障害があり、ことばはありませんでしたが、感情表現が豊かで態度などで自分の意思を伝えてくれたといいます。

(美帆さんの母親)
「毎日、毎日悲しく美帆のことを思い出します。1分1秒でもいいから、お化けでも幽霊でもいいから会いたいです。なぜ何の落ち度もない、何も悪いことをしていない娘が命を奪われなければならなかったのか、今でも疑問に思います」

“名前は生きた証” 娘の名前を公表 共感の手紙が支えに 

そうした日々の中で、1通の手紙から始まった交流が支えの1つになってきたといいます。


事件では当初犠牲者は全員匿名となり、裁判でも「甲A」「乙B」などと匿名で審理されることになりました。

しかし、母親は一生懸命生きていた娘の「生きた証し」を残したいと、美帆さんの名前を公表しました。

すると3か月後、その思いに共感した鳥取県内で障害のある子と暮らす母親から、弁護士宛てに手紙が届いたのです。

(届いた手紙)
「あの事件が起きたとき、悔しくて悔しくて眠れませんでした」
「ただ抱き合って悔しい悲しい涙を共有したかったのです」

“同じ思いと伝えたかった” 手紙は鳥取県から 

手紙は鳥取県米子市で障害のある息子と暮らしながら、障害者支援に取り組むNPO法人の代表を務める植村ゆかりさんからでした。

(植村ゆかりさん)

「同じ人間として扱われていない社会の中で生きていることのしんどさが、如実に表れたのがAやBという『匿名』の形だったのだと思います。だからこそ私も同じように名前を出したいと思っていることを同じ親として伝えたかった」

4年余の交流 植村さんの気持ちに変化も

美帆さんの母親は、4年余り交流を重ねる中で「1人でも聞いてくれる人がいるのだったら話したほうがいい。諦めたらそこで終わりだよ」と植村さんから励まされ続け、発信の後押しをされてきたといいます。

また、植村さんも「差別や偏見が根強い社会では息子を介助できなくなったら一緒に死んだほうがいい」とさえ思っていましたが、美帆さんの母親と話す中でその気持ちに変化が生じたといいます。

(美帆さんの母親から届いた手紙)
「私が美帆にできること、障害のある方が少しでも生活しやすい、生きやすい社会になるように何かできることをしていきたい」

植村さんは、娘を亡くした今も模索を続ける姿に、自分も諦めず、息子たちが生きやすい社会に変えていきたいと、考えるようになったといいます。

(美帆さんの母親)

「裁判の時も『優しい社会になるように』と言いましたが、障害者への虐待はなくならず事件も起き、決してそうした社会に進んでいるとは思えません。一方で事件後、本当に多くの人が助けてくれたので、今は『命の大切さ』を伝えていきたいと考えています。少しでも命を落とす人が少なくなればと思いますし、一生懸命生きていた美帆のことを忘れないで欲しいと思います。『命の大切さ』を伝えることは彼女のことを伝えていくことにもなると思っています」

亡くなった菊地原理枝さんの母親 初めて取材に応じる 

また、40歳で命を奪われた菊地原理枝さんの73歳の母親が初めてインタビュー取材に応じました。

理枝さんは神経の難病で言葉で自分の思いを表現することはできませんでしたが、屈託のない笑顔が印象的で周囲の多くの人に親しまれていたといいます。

36歳まで自宅で暮らしていましたが、両親は年齢を重ねる中で自分たちが亡くなったあとのことを考え施設への入所を決め、それから4年目に事件がおきました。

理枝さんの母親は、追悼式に参加したあと、自宅を見下ろす高台にある娘が眠る墓を訪れ、理枝さんが大好きだったコーヒーを供えて、静かに思いを寄せていました。

(理枝さんの母親)
「長いようでもあり、短いようでもありますが、あの日のことを忘れることはありませんし、今でも理枝さんは私の心の中にいます。でも施設に入っていた時間を除いて、40年間、常に一緒に行動していましたから、あの笑顔が見られないのはやっぱり寂しいです。何であのような事件が起きてしまったのかはやっぱり気になります。障害者はこの世に必要ないという主張に対しては、理枝さんはお世話をしてくれた人たちから大変愛されていましたし、癒やしを与えていたとも思います。本当の意味での共生社会になって、障害者でもお年寄りでも子どもでも仲よく暮らしていける社会になっていってほしいと思っています」

津久井やまゆり園の現状は 

現場となった津久井やまゆり園では事件当時、重度の知的障害がある人たちおよそ150人が暮らしていました。

事件のあとほとんどの建物は解体され、県は当初同じ規模の施設に建て替える方針でした。

この方針を受けて障害者団体などからは「地域に根ざした小規模な施設にすべきだ」といった反対意見が寄せられた一方、利用者の家族からは「地域で受け入れられないので、施設にお願いしている」とか「同じ規模で再建してほしい」といった声が上がりました。

再検討の結果、現地と横浜市内の2か所に以前の半分以下の定員およそ60人の施設が再建されました。

施設の再建に際しては、やまゆり園を運営している社会福祉法人「かながわ共同会」の入所者支援のあり方についても議論になりました。

県が行った有識者による検証で、一部の利用者について「見守りが困難」という理由で、外から施錠した個室に長時間拘束していたことなどが明らかになり、虐待の疑いが極めて強いと指摘されました。

これを踏まえ津久井やまゆり園では、入所者の希望をよりくみ取った支援を行うよう努めるとともに、本人や家族の意向を尊重しながら、地域で生活するグループホームなどへの移行を進めていくとしていて、昨年度から5年間、毎年12人ずつとする目標を掲げています。

しかし、グループホームに移行した人は先月末までの1年余りで3人にとどまっていて、今後地域の暮らしの場をいかに確保していくかが課題となっています。