週のはじめに考える 元死刑囚が語った死刑(2024年6月9日『東京新聞』-「社説」)

 フェルメールの名画「真珠の耳飾りの少女」の複製が掛かるリビングでくつろぐ、元死刑囚の赤堀(あかほり)政夫さん=写真。2010年、取材で名古屋の自宅マンションを訪ねた時の1枚です。今年2月に94歳で世を去りました。真珠の宝石言葉は「無垢(むく)」。「僕は無罪である以前に無実」と繰り返していた赤堀さんの思いが重なります。
 赤堀さんは1954年、静岡県島田市で女児が殺された「島田事件」で死刑が確定したものの、89年に再審無罪で釈放されました。
 手にした写真で赤堀さんは、やはり再審無罪で死刑台から生還した「免田事件」の免田栄さん(右)、「松山事件」の斎藤幸夫さん(左)と肩を組んでいます。戦後、再審無罪になった元死刑囚は、「財田川(さいたがわ)事件」の谷口繁義さんを入れて4人。赤堀さんが亡くなり、4人とも不帰の客となりました。
キャプチャ
◆無罪の前に「無実」だ
 インタビューでの赤堀さんの発言からは、以前から指摘されていた刑事司法や再審制度の問題点がいくつも浮かび上がりました。
 まずは、不条理な取り調べ。署長らが想像で事件の順序を書いて読み上げ「その通りにしゃべれ」と命じたそうです。「事件のことなど何も知らない」と言っても聞いてもらえませんでした。
 そのくだりでは、普段は柔和な赤堀さんが興奮して猛烈な早口になり「○○が一番悪い。何十年たっても忘れない!」。後でICレコーダーをゆっくりした速度で再生して、やっと、刑事の実名が聞き取れました。
 マスコミへの批判も。当時は、任意同行の時点で「犯人捕まる」と写真付きで実名・呼び捨て報道され、逮捕後も取材合戦は過熱。「刑事と記者は仲間だと思っていた」と語気を荒らげていました。
 そういえば、福岡県の「飯塚事件」(92年)=先週、再審請求棄却=を追った今年公開の映画「正義の行方」で、同事件で特ダネを連発した新聞記者が、自嘲気味に語っていました。「自分はペンを持ったお巡りさんになっていた」
 「当日告知」の問題もしかり、です。再審請求中、赤堀さんが仙台の拘置所にいたある朝、コツコツという靴音の後、独房の扉がガチャリと開きました。刑務官が隣の房と間違えたのだそうですが、死刑執行への“お迎え”と勘違いし、恐怖に打ち震えた赤堀さん。「僕の髪と眉は、1日で真っ白になってしまった」と唇を震わせていました。
 大阪地裁が、執行を当日に告知する国の運用は違憲だとする死刑囚2人の訴えを、「運用には一定の合理性がある」として退けたのは、赤堀さんが身罷(みまか)って間もない今年4月。もし存命だったら、この判決に何を語ったでしょう。親族や支援者に会うこともできずに突然執行される仕組みに苦しめられ続けた本人。まして冤罪(えんざい)の当事者なのです。怒りの言葉がほとばしったに違いありません。
 インタビュー取材の最後に「長い獄中生活で失ったもの」を尋ねました。「第一に、名誉、です」と赤堀さん。「無罪はもらえたけれど(裁判長らの)謝罪はなかったので」「報道などで、灰色無罪と言われて腹が立った時期もあった。僕は真っ白な無実なのに」
 そして、ややあって、少し照れくさそうにこう言いました。「第二に、青春かな」
◆青春を返してほしい
 25歳で逮捕され、釈放されたのは35年近くたった59歳の時。再審無罪までの道のりが長過ぎるほど長いのは他の元死刑囚にも共通しています。逮捕から釈放まで、免田さんは34年、斎藤さんは29年、谷口さんは34年を要しています。
 今年5月、静岡市で「赤堀政夫さんを偲(しの)ぶ会」が催され、ゆかりのある50人ほどが故人への思いを語り合いました。島田事件対策協議会の長老、鈴木昂(こう)さん(85)は「客観証拠は全くなく、強制された自白だけが根拠の死刑判決でした。赤堀さんの『死刑廃止』や『再審法改正』の闘いを受け継ぎ、未完の宿題を背負いたい」と話します。
 鈴木さんは、一家4人殺しの事件で死刑が確定したものの、今秋の判決で、再審無罪が確実視される袴田巌さん(88)の支援団体にも属しています。48年間も獄中にあり、再審開始決定で釈放されてから10年後の今も、なお「被告」の立場の袴田さん。ようやく晴れて「無罪」になる日を待って、きっと泉下の赤堀さんらも首を長くしていることでしょう。
 

キャプチャ
解説
2022年4月にNHK BSで放送され、令和4年度文化庁芸術祭・テレビドキュメンタリー部門大賞を受賞したBS1スペシャル「正義の行方 飯塚事件30年後の迷宮」を劇場版として公開。
1992年に福岡県飯塚市で2人の女児が行方不明となり、同県甘木市(現・朝倉市)の山中で他殺体となって発見された飯塚事件。94年に逮捕され、DNA型鑑定などにより犯人とされた久間三千年(くま・みちとし)は死刑判決を受け、08年に刑が執行された。しかし、執行の翌年に冤罪を訴える再審請求がなされ、事件の余波はその後も続いている。本作では飯塚事件に関わった弁護士、警察官、新聞記者がそれぞれの立場から語られる「真実」と「正義」をもとに、この事件の全体像を描きながら、日本という国の司法の姿を浮き彫りにしていく。
監督はNHKディレクターとして死刑や犯罪を題材にした数多くのドキュメンタリーを手がけ、樹木希林を追った「“樹木希林”を生きる」を監督した木寺一孝。
2024年製作/158分/G/日本
配給:東風
劇場公開日:2024年4月27日

赤堀中闘委ニュース 第6号
赤堀中央闘争委員会 1979/08/10
 
警戒心をたかめ、全国の仲間の力で一日も早く赤堀政夫さんを取り戻そう!
赤堀さんの近況
暑い日が続きます。赤堀さんも、半袖姿です。面会室に、扇風機がつきましたが、赤堀さんに風が行くわけでなく、話がじゃまされるので、使いません。
財田川事件再審開始決定が、地才でなされ(許し難いことに、抗告されましたが)、赤堀さんとの対話の中では、大変喜ばしいことであるが油断はならないこと、古畑鑑定は全くでたらめであり、島田事件においても同様であること、法務委員会等で、追求してほしいということ、決して油断はならないが、谷口さんの成果を、私たちのものとすべく、みんながんばろうと語っています。
その折、主任弁護人であり、赤堀さんが信頼をよせていた鈴木信雄氏が死去され、ショックでした。信雄氏は一審以来、赤堀さんの無実を信じ、弁護活動を行ってきており、現在、証人として申請中でありました。赤堀さんは故人のめいふくを祈るとともに、また一方、高裁への新たな、強力な証人を認めさせるよう語っています。
獄中では、手紙を書くのにほとんど時間をとられており、赤堀さんが書いた、「生い立ち」がタイプされました。(詳しくは後に)
果物や牛乳は、しっかり食べるようにと言っています。今は、トマトを食べていると言うことです。
〈赤堀さんの一日〉
起床時間―午前7時25分―点呼―朝食
9時から運動が始まる―10時まで
昼 食 11時30分―12時
昼休み 12時15分―1時 ラジオを聞く
運動時間 1時―2時
夕 食 4時
点 呼 4時50分
就 寝 6時
消 燈 9時
『ラジオは午後5時30分から入り9時まで、メンキョウ日(休日)は別です。その日は、起床は同じ、食事時間大体同じですが、夕方は早くなる。点呼は午後4時30分すぎ、ねる時間は5時半になる。
冬は、ネル時間が30分早くなる。
診察日、毎週月、木曜日。(特別の診察を受ける人は別)
部屋の中には一人です。時間の許す限りは自由です。私は毎日毎日部屋の中です。机をおきまして、それで、手紙を書いているのです。日記付け、読書をする。洗たくします。
そうじをします。整理します。針仕事をやるのです。ラジオ(を)ききます。面会があります。入浴があります。診察日があります。
毎月各一回づつは映画をみます。テレビをみます。集会は年に2回あります。夏、冬です。
外から入ってきます手紙です。多い日には10通ぐらいです。少い日には一日1通です。こない日がありますよう。
いろいろなニュース、本などが送られてきます。』
(赤堀さんの手紙よりカタカナはひらがなにしました。)
6月1日?6月27日面会
面会日数 23日のべ48人(うち仙台外4人)
各地の闘いから
広島・赤堀さんと共に斗う会
5月24日、赤堀さんが差別逮捕されて、実に25年におよぶ怒りに燃える憎むべき日、斗う仲間20名は、広島駅前で、「差別逮捕25周年糾弾!無実の赤堀さんを奪還しよう!」と訴えて、情宣を行ないました。共に斗う会と今年3日、「障害者」「病者」を中心として結成された〝全障連広島協議会(準)〟のメンバーを先頭に、刑法改悪と斗う広島百人委員会、修大部落解放研、支援の学生、労働者が、各々胸にゼッケンをつけ、車イスには、「赤堀さんは無実だ!!」と書かれたのぼりを立てて、駅に向う人々に車イスで突進しながら足を止めさせ、二五〇〇枚のビラを撒ききりました。赤堀差別裁判が、全ての「障害者」の抹殺=虐殺宣言であることをはっきりととらえた「障害者」の赤堀斗争への登場は、多くの人々の心をつきさし、アピールに聞き入る人々、ビラを熱心に読んでいる人々、激励に来る人々の姿を各所につくり出しました。
「同じスクールバスに、今年度義務化でつくられた廿日市養護吉島分校の「精薄児」とよばれている子供らが乗っている。なぐられたり、動物以下のように扱われている。ぼくは、赤堀さんが次々とつくられている様に思った」「『障害児』はばらばらになっちゃいけない。一緒に『障害者』差別と斗うんだ」という全障連に結集した「障害者」の発言は、赤堀さんと共に斗う、「障害者」解放への怒りの赤炎として5月24日にたたきつけられました。
「病者」「障害者」を中心として、あらゆる斗い、あらゆる戦線との共斗を求めて、赤堀さんを生きて奪還するために、力のかぎり斗い抜かなければならないと思います。
新潟・赤堀さんと共に闘う会
赤堀さんが不当逮捕されてから25周年目の怒りの日=5・24闘争の一環として、新潟では5月27日に「新潟・共に闘う会」の主催で学習会をおこないました。
学習会は、新潟大学教授の小野坂氏の「精神障害者」差別がエン罪事件に利用されていく密接な関連性を暴きだした講演と、「共に闘う会」からの赤堀さんの無実(―差別)を具体的に明らかにしたレポートを中心としてすすめられ、討論の中では自分が実際に体験したさまざまな「障害者」差別の実態とそれへのとりくみや今後の闘いの決意などが一人一人から述べられました。
参加者は20名で、子供づれの女性や会員の母親などのかなり巾広い参加者が得られました。「新潟・共に闘う会」が結成されてから一年がたつわけですが、参加者の数や層の拡大において、今後、わたしたちの創意と努力によって二歩も三歩も前進していかなければならないと思いました。
わたしたちはいつも赤堀さんから「団結シ連帯シテ下サイ」と励まされ、赤堀さんのやさしさに勇気づけられています。わたしたちは獄中26年目を迎える赤堀さんの怒りと無念、そして不屈の闘いをしっかりとうけとめ、わたしたち自身のものとして赤堀氏奪還し「障害者」解放に向けて闘っていかなければなりません!
有事立法や元号法制化のゴリ押し的強行を通して戦争の総動員体制がすさまじい勢いでつくられつつあります。こうした中で、赤堀さんへの死刑執行あるいは獄死を狙う攻撃をはじめとして、刑法改悪―保安処分新設、養護学校義務化、安楽死法制化などの「障害者」差別を強める攻勢が一挙に吹き荒れようとしています。まさしく、「障害者」が徹底的に差別され虐殺されていったあの第二次大戦を準備していった一九三〇年代をホウフツとさせるものがあります。
このところわたしたちの闘いに対して、国家権力の弾圧がより露骨で悪どいものとなってきています。以前から「共に闘う会」の会員に対する尾行や脅迫が続いていたのですが、最近では家族をも対象として恫喝と懐柔をくり返しています。わたしたちは、こうした権力の悪辣な弾圧に断じて屈することはできません。権力が今わたしたちにくわえているやり口は、まさしく彼らが赤堀さんをデッチ上げ逮捕し、拷問にかけ、死刑囚とし、四半世紀にわたって暗獄に幽閉し、死刑執行ないしは獄中死せしめようとしているやり口とまったく同じなんだ、ということをはっきりみなければなりません。であるなら、わたしたちは、これに屈してはならないのです。赤堀さんと〝共に闘う〟〝連帯する〟とは、この厳しさと闘うことなんだ!
新潟大学糾弾において、差別漫画糾弾において相手は居直りをきめこもうとしています。全国の仲間と共に、さらに闘い抜きたいと思います。
(以上5・24斗争報告で、前号に載せられなかった分です。編集部)
「病」者集団への不当弾圧
全国「精神病」者集団
このたびの全国「精神病」者集団事務局に対する警察権力のあからさまな不当弾圧は、天皇が帰京した5月29日まで行なわれました。5月29日朝、車で出かけると車での尾行がありましたが、午後になると公然としたはりこみや尾行はなくなりました。
このような不当弾圧を絶対許せぬ我々は、5月30日に、名古屋弁護士会人権擁護委員会に次のような人権救済の申し立てをしました。
天皇来名中、愛知県警の特殊管理下におかれ次の通り人権を大きく侵害された。
○会議中その周囲を包囲し過度に監視し妨害した。
○事務局を車5台、自転車1台、私服10名前後で監視し事務機能を妨害した。
○我々の外出に尾行追跡した。
○事務局の出入りをチェックし監視した。
○ 事務局責任者Oの出退社を車2?3台で尾行威嚇した。
 ○28日Oの退社時「道交法違反」を口実に運転手に職務質問し拒否すると署への不当同行を強要した。
以上は、病状の悪化をはじめ運動の妨害その他人権侵害にかかわるので申し立てする。』
この申し立ては、人権擁護委員会で検討される事になりました。
この不当弾圧は、全国に大きな怒りの渦をまきおこし、続々愛知県警に対する抗議声明が集まっています。
我々は、このような不当弾圧にも屈せず、第四回全国「精神障害者」交流集会を大成功のうちに終えました。
「『病』者の『保護』」の為、不当弾圧!
「病」者集団への不当弾圧で、愛知県警に抗議
5月26?29日の天皇来名に関連しての愛知県警による全国「精神病」者集団に対する不当弾圧について、7月26日に愛知県警に抗議を行ないました。この日の抗議には、「病」者集団をはじめ赤堀中央斗争委員会、日本精神神経学会、保安処分反対知県連絡会議、社会党全電通名古屋市部など各団体から、20余名が参加して行なわれました。
県警側の責任者の警備部管理課公安委員会次長は、「代表3名としか会わぬ。」と、はじめから不当きわまりない事を言うのでした。「根拠は何か。」と問いつめると、「3人が話しやすい。」と、詭弁をろうするのでした。我々が、「全国から代表が5団体来ている。」と言うと、今度は「代表5人。」と言い、またもその根拠は、「5人が話しやすい。」などと詭弁を言う始末です。
規則では、代表10名は、はいれる事になっているので、10名を要求すると、「それは、陳情の事で、抗議の事ではない。」と、言いだす始末で、「抗議は、うけつけぬ。」と、不当にもつっぱねるのでした。
「犯罪行為もしてないのに、尾行等をして人権侵害しているから抗議に来たのだ。」と追及すると、「当然の適法行為であり、抗議はうけぬ。これでおわる。」と、いなおるのでした。
我々のねばり強い追及で、結局代表6人と、録音されると困る事でもあるのか、テープ録音が不当にも禁止されたので、書記として2名の計8名が、はいれる事になりました。県警側は、公安委員会次長ら三人と書記一人です。
我々が、全国から寄せられた31団体・個人の抗議文をつきつけると、「うけとれぬ。」と拒否しました。我々が、抗議文を読みあげると、不当弾圧の根拠は、「警察法第二条の個人の生命・身体の安全保護と、公共の秩序維持による。」と、主張するのでした。具体的な根拠を問いつめても、「色々な事犯で警戒する。」と、一般論を答えるのみで、「5月26?29日の事実はどうなのか。」と、追及しても「あなた方がそう思われただけ。」と、くり返すばかりでした。
更に鋭く追及しても、「答える必要はない。」と、逃げの一手で、「5月31日付の朝日・中日新聞記事の警察談話で認めているではないか。」と、追及すると「新聞社の責任で書いているもので、検閲してないから関知せぬ。」などと、詭弁をろうする始末でした。また、「県議会治安委員会で、社会党議員の質問に対して、『はじめからマークしていた。』と答弁しているではないか。」との追及に対しても、「言ってない。」と、否定するのでした。
そして、「警察法第二条の個人には、『病』者もはいる。」と認め、「その生命・身体の安全保護の為にやった。」と、答えるのでした。
つまり、「病」者の「保護」の為に不当弾圧をしたと言う事になるのです。「病」者の病状を悪化させ、地域排除の恐れまででてきているというのに「保護」とは、何たる事であろうか。我々「病」者の死活問題にかかわる事ではないか。
県警側は、具体的に何ら答えず、抗議をうけつけずに「時間だから。」と一方的にうちきろうとしたのです。我々が、抗議文をつきつけると、「こちらで、『処分』してよいのか。」と言ってうけとり、あくまで抗議はうけつけず、抗議文は、「処分」するという姿勢なのです。
我々は、これでひきさがらず、全国百二十五万人「病」者の怒りをもって、県警に謝罪させ、今後一切このような事を行なわぬよう確認させるまで斗う決意です。県警よ、おまえたちの思いのままにはならないぞ!我々の怒りを身をもって知れ!我々は、このままでは、すませないぞ!我々は、絶対に許さないぞ!
尚、我々は抗議後記者会見をもち、県警の差別性を暴露し、翌27日の新聞紙上で、広く報道されました。
三百名が参加し交流を深める?
第4回全国「精神障害者」交流集会
愛知〇の会会員
6月9?10日に、名古屋で第4回全国「精神障害者」交流集会が開かれました。
9日は、午後六時より全国各地から80名が参加して寿元寺で交流会が開かれ、悩みや斗かう決意などを語りあいました。ひき続き個人交流に移り、ふだんあまり会う事のできない仲間が久しぶりに再会し、話に花を咲かせ交流を深めました。
10日は、午前10時より全国の仲間三百名が参加して、愛知県勤労会館で交流集会を開きました。
まず、犠牲になった大勢の仲間への黙とうから始まり、続いて全障連、赤堀中斗委、部落解放同盟などから心強い連帯のアピールがありました。
そして、いまわしい精神病院の実態や、社会からも差別排除されている現状を述べ、赤堀さんを生きて奪い返し、刑法改「正」ー保安処分粉砕に向けての決意を述べた基調報告が行なわれました。
続いて、「病」者に対する介護を強く訴え「ガンバッテ生キテユキマショウ。マサオハサイゴウマデタタカイマス。ムザイヲカナラズカチトリマショウ。オオエンヲオネガイウシマス。」という、赤堀さんからのアピールが代読されました。
その後、体験発表と討論に移りました。ここでは、精神科医に「人間ではない」と言われた「病」者の鋭い糾弾に対し、精神科医は何ら答えるすべもありませんでした。また、電気ショックやロボトミーの問題で、被害者の「病」者から、「こわい」という生々しい声が聞かれ、白熱した討論が行なわれました。
そして、「『精神障害者』解放に向けて更に斗う」という集会決議を採択した後、赤堀さんに関する法相宛の死刑執行をさせない決議、東京高裁宛の再審を開始させる決議、更にこのたびの天皇来名に関する「病」者への不当弾圧に抗議する決議をそれぞれ採択しました。
最後に、刑法改「正」―保安処分新設粉砕・赤堀差別裁判糾弾などのシュプレヒコールを力強く叫び、インターナショナルを合唱して大成功のうちに終わりました。
6・10交流集会の医療班として感じたこと
6・10交流集会医療班
「〇の会」より全国「精神障害者」交流集会での医療援助を依頼されたのは確か4月頃だったと思います。「〇の会」の依頼を受けて何人かの医師が参加することになりました。結局医師4人、看護婦1人が協力することになりました。その他にも内科医の協力が得られ、急な場合にそなえて待機してもらうことができたり、医楽品などを借し出してくれた病院があったりで、影の協力も得ることができました。
こうして医療機具、医薬品などもなんとか揃い、現場で十分処置できる態勢が整いました。
集会場で処置が困難な場合は病院での処置あるいは入院が必要になりますが、そのための病院も色々な人の協力によって3つの病院が確保されました。集会場から病院へ病者を運ぶ手段は「〇の会」の方で準備し、万一の場合に備える態勢もできていました。
このような準備をしながら6月9日、10日の交流集会に参加しました。
9日の交流会では、介護のため付き添って来た人が疲労と腹痛を訴えたのと、眠れない人が2人ほど出た程度で、無事に集会を終えました。
その間交流会の方は一人一人自己紹介が行われていて、辛い体験が語られていました。皆何かを得ようとしていると言う強い印象をあらためて感じました。
この日は翌日の集会で疲れないように、十分な睡眠が確保できるように早めに集会が終り、事務局の行きとどいた配慮が印象的でした。
さて10日の交流集会では子供が1人熱を出したのと、長旅で疲れた人が2人でた程度で大したこともなくすみました。ただ子供に対する治療が考えられていなかったので、当日他地区の医師の協力でなんとかその場をしのぐということになってしまいました。今后は子供に対する準備も必要になるだろうと思います。その間集会の方は色々な意見、アピールが行われていましたが、印象的だったのは電撃ショック療法はある程度有効な治療法であるという説明がされましたが、「病者」の方から「良くなればどんなことでも許されるのか」という鋭い問いが出されました。この問には私達がもう一度考えてみなければならない重要な問題があるように感じ、非常に印象的でした。
なにぶんにも初めての経験で、行きとどかない点もありましたが、少しでも役に立ったとすれば幸いです。この集会に参加して感じたことを大切にして行きたいと思います。
6・26―28精神神経学会闘争に決起
広島赤堀さんと共に闘う会
広島県「障害者」解放委員会
広島の地において、「無実の赤堀政夫さん奪還!『障害者』解放!」の斗いをやり抜いている私たち2団体は、全国「精神病」者集団の強い提起に応えるべく今学会斗争を3日間連続して斗い抜いたことを報告します。「何はおいても『病者』の斗いを共同で支えてほしい」との『病者』集団からの提起と、赤堀さんが常に「みんな仲よくやってほしい」と書きつづけてきていることに応え、なによりも今学会斗争に勝利することを最優先課題としてすえきり、様々な任務の分担をなしきりました。
今回の学会斗争は、右翼=講座派教授連の反動的まきかえしと、差別者集団=「精医研」一派の敵対という困難な情勢ではありましたが、赤堀・鈴木をはじめとする諸決議諸確認を獲得することができました。
こうした勝利は、まずなによりも全国「精神病」者集団のすばらしい斗い=告発・糾弾がもたらしたものであり、さらにそれを受けとめた精神科医共斗の医師たちの活躍にあったと思います。私たちはこうした斗いの一翼を荷ったことの意義をかみしめると共に、斗いの中でつかんだ教訓を「赤堀奪還」の斗いに生かしていきたいと思っています。
26日、理事会破壊のためにのみ一瞬登場した「精医研」一派残党は彼らの目的は達成できなかったのだが、その腹立ちまぎれに、「赤堀斗争は自己満足である」との許せぬ暴言をはいた。我々は赤堀さんと全「障害者」に対する敵対宣言であるこの差別暴言を徹底糾弾し、医師としての自己満足を追い求める彼らの堕落した運動を一刻も早く終末へと追いこんでやらねばならない。
27日夜には宿舎で交流会がもたれ、広島の仲間と「病者」集団の熱い交歓がなされましたが、とりわけ広島赤堀さんと共に斗う会に結集する「病者」との交流がかちとられたことを報告しておきます。
さいごに、今学会斗争に参加した一「障害者」の感想文を記して終ります。
このがかいは「しょうがいしゃ」もさんかするのですからいすも「しょうがいしゃ」のすわりやすいいすおよういすること。「しょうがいしゃ」がはつげんおすることもあるのだからしゅさいしゃがはのはいりょおしわいやれすまいくろほんお五本よういしておく。つぎにせいいけんのにんげんがびょうしゃしゅうだんにむかてあかぼりさんのうんどうはおまえたちのじこまんぞくだとゆうことはぜたいにゆるさざるぼうげんでぜたいにゆるすことはできないとおもいます。そしてもうひとつはすずきくにおをぎゃくさつするけんりくをてていきゅうたんしなくてはならない。なごやにてんのうがしょくじゅさいにきたときにびょうしゃしゅたのしゅかいおつぶそうとしてけんりよくがつきまといぼうがいおしあまつさえふとにくるまおとめなんのようぎのないにもかかはらずどらいばあたいほうしようとしていたがこのようなさべつだんあつおゆるすことはできないのです。
むじつのしけいしゅあかぼりまさおさんおそくじだつかんおするまではぜんちからおあせてたかいぬくことおけついしなければならなとおもいますし、そにたいしててきたいするちょうりうは、はんかくめいとしていいとおもいます。あかぼりとうそうを、すずきとうそう、さやまとうそう、日本はらとうそうを、さんりつかとうそおぜんりくおちからおかけてがんばてゆかなければならないとおもいます。
こんかいのせいしんかがいてけつぎおどこまでもはんえいさせてもらえなければならないとおもいます。このてんおしかりときもにめしてこんごのがくかいにはんえいさせてください。
赤堀決議をかちとったが、
「障害者」無視のもとに行なわれる
第75回日本精神神経学会総会が、6月27?28日に広島市公会堂で行なわれました。私達全国「精神病」者集団は、広島赤堀さんと共に斗う会、広島「障害者」解放委員会、仙台赤堀さんと共に斗う会の仲間と共に参加しました。
総会に先だち26日に、理事会と評議員会が行なわれました。ここでは、議題にそって進められようとしたのに、精医研がはじめから議事の妨害にのりだしました。しかし、私達は精医研の妨害をはねのけて、赤堀さんへの死刑執行阻止、獄中処遇改善、天皇警備に関連しての愛知県警による「病」者への不当弾圧抗議の決議をかちとると共に、中間施設と鈴木君虐殺問題について検討していく事が確認されました。
27日午後の総会は、定足数に達せず集会となりましたが、理事会提案通り赤堀決議などをかちとりました。予定時間をすぎたので討論をうちきりましたが、またも精医研は発言を強行しようとし、ロボトミー被害者の声を封殺しようとしました。しかし、私達の強い抗議の声に精医研もロボトミー被害者の声を保障せざるをえませんでした。そして、精医研は発言時間の5分をはるかにオーバーして「奈良医大不正入学うんぬん・・・・・・。」をがなりたてましたが、時間がない為途中でうちきられました。ここで、精医研が「赤堀は自己満足」と述べた事に対し、私達は自己批判を求めましたが、精医研は何らこたえる事もできずに、不利とみるや一目散に逃亡するありさまで、精医研の本質がまたも暴露されました。
このように、広島赤堀さんと共に斗う会、広島「障害者」解放委員会、仙台赤堀さんと共に斗う会の仲間と、三者共斗を成立させ、赤堀決議をかちとるなど成功のうちに終えましたが、「障害者」無視のもとにすすめられていたのです。それは、次のような3つの大きな問題点があったのです。
まず第一に、27日午後の総会の時に非会員席にマイクが設置されていなかった事です。これは、「障害者」の声を封じるものであり、明らかに「開かれた学会」に反するものです。私達の強い抗議によって、会員席指定位置へ入場する事が認められて、ようやく発言する事ができたのです。そして、「障害者」が参加しているのに、救護室さえなかったのです。28日午後に救護室を要求すると、ようやく会議室を臨時に救護室に使うというありさまで、救護設備は何らなかったのです。
さらに、朝の9時から夜の8時30分まで、延々12時間にも及ぶもので、全く「障害者」を無視した日程です。
このような事で、「開かれた学会」などと言えるのでしょうか?
私達は、強い疑問を感じます。
光文社―〝女性自身〟糾弾闘争の報告
すでに、多くの集会その他の場所で報告されて知っている方も多いと思います。
光文社版雑誌「女性自身」の差別記事、糾弾の斗いを報告します。
問題となった記事は、本年2月1号、「こんな変態男が野放しになっている!」(一八四?一八六頁)というタイトルで、掲載されたもので内容は次のとおりです。
ー『日本全国で他人に傷害を与えるおそれのある精神障害者を七五〇〇人も強制収容しているという、恐しいことにふだんはおとなしい障害者はもっと多いはずとか』『困るのは、堀江のケースや、精神障害者の場合である。犯行時に、正常な判断を失っている「心神喪失者」とみなされれば不起訴になったり精神病院への収容だけに終って、またぞろ世の中に出てくる可能性のあることだ。また一見おとなしいが、いざとなると凶暴になる、〝通り魔〟的な〝異常者〟は、世間に少なくないはずで、なおさらのこと世の母親の恐怖の的である』
というリードのみちびきをうけ、日本の事件と、外国の事件を、とり上げたものである。
いずれも、少年、少女が、誘かいされたり襲われるという恐怖心を一方であおりつつ、その「犯人」は、実は危険な人間であり、野放しになっているという、文字通りの「精神障害者は恐しい」というキャンペーンそのものであります。
これに対する取りくみは、東京一円の赤堀斗争に関わる人々の中で開始されました。
まず、病者を含めて、この記事を整理して問題点を次のとおりまとめ光文社への抗議書として、つくり上げました。
〈問題点〉
この記事は、いわば全く根拠のないデータや、「精神障害者」への偏見を、さも事実であるかのように強調してゆくことにより、
第1に、「精神障害者」は他人に危害を加える恐しい者だという偏見を読む人々に与え、社会的にまき散らすものである。
第2に、「精神障害者」が、社会で生活することを否定し、精神病院等への長期拘留を要求して当然という考え方、見方、そしてそういう事実を肯定してしまうこと。
第3に、現在、政府―法務省が企てている、保安処分の必要性を強調するものであること。
第4に、こうした事実に反した報道は、多くの「精神障害者」を著しく傷をつけるものであること。
等であります。
そして、4月27日、この抗議書と、その上で、自己批判及び、謝罪の意をこめたいくつかの行動を要求する要求書をもって面会要求行動を行いました。
光文社社長、「女性自身」担当重役、同編集長は、居留守をつかい出てきませんでしたが、ついには話し合いの場に出てこざるを得ず、言を左右に、逃げや居直りをつづけていた編集長も、当記事が「精神障害者」を危険視していること、「精神障害者」の「終身拘留」を強調していることを認めざるを得ませんでした。
翌5月10日、光文社より2回目の交渉が指定され、団交がありました。この日は、前日とはうってかわって、社内ガードマンを各所に配備し、厳重な監視のもと、我々の要求をおしつぶさんとする意図もあからさまに、臨んできていました。そして、いわゆる「謝罪文」なるものを用意し、しかも「女性自身」の誌上においてのみ謝罪するというもので、およそ謝罪とは思われない威丈高な姿勢でした。
「謝罪文」は、およそ差別を拡大、助長し、人間である「病者」へのこの上ない攻撃的な記事であったことへの反省があまり見られないもので、結集する人々からの追及をするどくうけ、直さざるを得ませんでした。
結果として、別掲のとおりの謝罪文となり、又この謝罪文を、この雑誌の広告を掲載する商業新聞紙上で発表せよ、という要求をもけってきましたが、一応、今後この問題の一つの区切りとして、うけ入れました。
しかし、今回の光文社への取りくみも、差別を打ち砕いてゆくための一つの大きな斗いであることとして受けとめ、抗議、35団体の力をもっとつよく束ねつつ、ぶつかってゆく必要を、それでなければ、打ち破れないことをうけとめねばならないと思っています。
教科書による差別の拡大、又「実態調査」と称して行われる行政アンケートにみられる差別の助長など、全国各地において、日に日に差別をふりまき、一層「精神障害者」を追い込むことがひん発しており、獄中の赤堀氏と同様、この世の中での〝生きる主張〟さえ、押しとどめられようとしていることに十分注意を払わねばなりません。
そして、赤堀さんの無実に目をつぶり、死刑を強行しようとする国家権力は、サミットの警備、天皇の警備と称しては、病者、「精神障害者」への強権的な弾圧をつよめています。
病者集団、全国交流集会前の〇の会への弾圧は、なんと言いくるめようとも、一片の説得力もない、国家権力の都合―意図そのものであることが、バクロされています。
今後も、続発するであろう、こうした事件に対して、一人一人が警戒の目をつよめ、孤軍奮斗する病者との連帯、日常でのつながり、共生をさらにつよめ、反撃してゆきましょう。
(謝罪文は省略、6・10集会質料参照―編集部)
弔 辞―故鈴木弁護士を弔ぶ
79・6・25付赤堀政夫さんから森源さん宛の手紙
去ル六月十五日ノ日、私クウシニトリマシテ一バン大事ナオシイ人ヲナクウシタノデス。ザンネンデス。マサヲハサミシイノデス。カナシイノデス。スズキセンセイサマニハモットウモットウナガクウナガクウ生キテイテホシカッタノデス。島田事件ノ赤堀政夫ノ事件モンダイヲウケモッテクレタノデス。大クラ弁ゴ士センセイノ人タチデス。
サイバン所ノ中デス法廷の中デノイロイロナトリシラベノシンリヲヤッテクレマシタ。サイバン官の人タチケンジ官ノ人タチトイッショウニシンリヲヤッテクレタノデス。弁ゴ士ミナサン方デノガッウシュクウナドウヤッテクレタノデス。合宿生活ヲヤッテクレタノデス。トキタマニハメンカイニキテクレマシタノデス。サイキンハ弁ゴ士サンノ人タチハメンカイニハキテハクレマセンノデス。手ガミウワダシタ手ガミハダシタノデス。ヘンヂウクレナイノデス。コマッテイマス。アタラシイヂョウホウガナニヒトツウハキマセンノデス。レンラクガトレナイノデス。コマッテイルノデス。弁ゴ士ノ人カラハレンラクウガナイノデス。クワシイコトヲシリタイノデス。クワシイコトウシリタイデス。オシエテハクレナイノデス。モリサンドウカオシエテ下サイ。
オシエテ下サイ。カナラズオシエテ下サイ。オネガイシマス。ワタクウシトシテハホントウハモットウモットウスズキノブオ弁ゴ士サンニハナガイキヲシテホシカッタノデス。ゲンキデイテホシカッタノデス。
アカホリマサオヲタスケルタメニデス。ショウ人台ノ上ニタッテモ(ラ)イタカッタノデス。スズキサンニハ、アカホリマサオヲハムヂツノ人間デアルコトヲ、ハッキリトウサイバン官ノ人タチノマエデ、ショウゲンヲシテホシカッタノデス。アカホリマサオヲムジツノ人間デアルコトヲハッキリトウ正直ニハナシテモ(ラ)イタカッタノデス。
二十五年間トユウナガイ年月カケテコレマデタタカッテ一生ケンメイニシンケンニナッテガンバッテガンバッテクレタノデス。オセワニハナリマシタノデス。一バンヨイ弁ゴ士サンデス。ヤサシクウテトテモウシンセツデシタ。イソガシイ中ヲメンカイニハタビタビ弁ゴ士サンガキテクレタノデス。アッテサイバンモンダイ上ノコトニツキマシテハイロイロトウハナシテクレマシタ。キカセテモウクレタノデス。サミシイデス。カゾクウ人タチハサゾカシ力ヲオトサレタコトトオモイマス。ホントウニキノドクウニオモイマス。マサヲハ心カラフカクウオクヤミヲ申上ゲマス。ゴショウソ(ショ)ウサマデスオクヤミヲ申上ゲマス。ワタクウシハカゲナガラスズキノブ夫センセイサマノゴメイフクウ神仏サマ方ニ一生ケンメイニ祈リマスヨウ。モリゲンサマ、ミヤ子サマ方、タナカサマ方カラハドウカアカホリニカワッテスズキサンノカゾクウミナサマ方ニハオクヤミヲイッテ下サイ。オレイウ(ヲ)イッテ下サイ。ソシテ、ススギサマニハフカクウオワビウ(ヲ)イッテ下サイ。ワスレズニツタエテ下サイ。ナニトゾナニトゾモリゲンサンミヤ子サンタナカサン方、兄一雄サン、ムツミサン方ニオネガイヲシマス。ムザイヲカチトリマ?ョウ。オレイウ(ヲ)シタイノデス。サイゴウマデ弁ゴ士ミナサンタチ、シエン(ウ)シテクレル大ゼ(イ)ノウミナサンタ(チ)ト共ニガンバリマショウ。オネガイヲシマスヨウ。
(以下の文は、7月9日の告別式の際、他の団体・個人の弔文と共に印刷されて出席者に手渡されるため二百字に制限されています。)
先生のご悲報を知り一瞬、頭から血が下がる思いでした。弟政夫の事件を先生にお願いしてから二十五年間、いつも温かく優しく、真剣に取りくんで下さいました。獄中の政夫私達一家にとっては常に大きな光であり、励ましでありました。今、その光りを失いました。この大きな悲しみは言葉に言いつくされません。先生、どうぞ安らかにお眠り下さい。そして天上から私どもをおまもり下さい。
一九七九年七月九日
赤 堀 一 雄
謹んで弁護士鈴木信雄先生の御霊に申しあげます。
六月十五日の朝、先生御逝去の報に接し愕然といたしました。御老令とはいえ、先生の御入院でも御回復なされたので、今回も必らず御元気になられると信じて過して参りました矢先、全く痛恨の極みでした。
先生にはじめてお会いしたのは、一九六三年夏のことでした。
島田事件といわれる死刑囚赤堀政夫犯人説に疑問をいだき先生の御所見を伺いたく訪問したのでした。鈴木先生は「よく来てくれた。」と温かく迎えてくだされ、赤堀君は冤罪であり、無実の人である理由を詳細に説明され、私に協力を懇請されたのでした。その後、私たちは島田事件対策協議会を結成し、赤堀君の再審請求運動にのりだし、現在に至っております。
鈴木先生の赤堀君への弁護活動は二十五年余にも及び、それも手弁当、無報酬の連続であったと承っております。鈴木先生の御意志は無幸の人は救わねばならない人命尊重、社会正義根源をつらぬくものであったといえましょう。
いつ頃だつたか、先生は「世のため、人のためになるには政治家か、弁護士になることだ」と先生の御祖父様のお訓しを話されたことがありました。先生はその御薫陶そのままの御生涯であったと感銘し、敬慕しておりました。
鈴木先生は、明治の人の厳格さと溢れる温情をもたれた方でした。
私たち仲間の申しのべる意見をお汲みとりくだされ、また指導の御言葉を与えてくださいました。
思えば、私達の運動は鈴木先生を中心に十五年となりました。「無実の人を殺してはならない。」という先生の御言葉を指針に一生懸命活動をつづけて参りました。
去る六月七日、高松地方裁判所は財田川事件死刑囚の谷口繁義氏再審決定の判断を示してくれました。鈴木先生も御病床で耳にされたことと存じます。私たちも一条の光明を得た感でした。日本の再審裁判に公正且つ慎重な決定が行われ、人権尊重の民主主義の証しが示されたものと喜んでおります。
そして、その光明が赤堀君の身に及よぶ日を待望鶴首しております。
そのためには鈴木先生はまだまだ生きていてほしかったし、せめても赤堀君の無実が判明されるまでの御長生を希求しておりましたのに、かえすがえすも残念でなりません。
私たちは先生の御意志の万分の一でもかみしめて、真実追求、再審貫徹の一路を踏みしめてゆくつもりでおります。幸い日弁連の人権ようご委員会、島田事件委員会の諸先生、奥野・大蔵・佐藤・市川先生方たちが御元気で活動しておられ、鈴木先生の御遺志を継いでくださるものと期待しております。
二十五年余にわたる先生の御努力、御指導を反芻しつつ、私たちも前進するつもりであります。
心から弁護士鈴木信雄先生の御冥福をお祈りいたします。
一九七九年七月九日
島田事件対策協議会
森 源
7・8 全国連絡会議に参加して(寄稿)
大阪赤堀さんと共に斗う会会員
財田川事件の再審開始の決定により、赤堀さんの再審開始への道がひらかれたと安易に考える者がいることに対し、激しい怒りを感じる。
又、赤堀さんも、自分には関係ないといって、財田川事件再審開始決定にとびつく人達を激しく批判している。島田事件は赤堀さんが「障害者」である故に、デッチ上げ、「死刑」の判決がだされたのであって、単なる「冤罪事件」ではない。
私「聴覚障害者」にとって、忘れられないことがある。今からちょうど35年前の1944年7月24日に、「聴覚障害者」中村誠策氏が「死刑」にされてしまったことである。
中村誠策氏は、1941年から1942年にかけて、静岡県下で起きた連続殺人事件(9人死亡、4人重傷)―浜松事件の「犯人」にデッチ上げられ、1944年に「死刑」が執行された。
浜松事件に関しては、赤堀さんの無実を主張した南部上申書のなかでふられており、そして、関西「障害者」解放委員会の「コロニー解体」3号(1978年11月発行)の中で、中村誠策氏が無実であることを明らかにした。
島田事件と共通するところがいくつかあるので、赤堀斗争勝利の為に列挙したい。
静岡県下で起きた事件。
②「拷問の王」紅林刑事の取り扱った事件。
③「障害者」差別に基ずくデッチ上げ。
④「障害者」抹殺攻撃の一環として、「死刑」を強行する。
更に、島田事件をはじめとする静岡県下の多くの冤罪事件を生み出した原因は浜松事件であると、南部上申書のなかで述べられている。
静岡県下最大の難事件」「聾唖者の恐るべき犯罪」等といわれ、迷宮入りを伝えられた浜松事件を「解決」したことにより、紅林らが警察史上初の検事総長賞を受賞した。この検事総長賞受賞が浜松事件以降の多くの冤罪事件を生み出したという。
しかし、浜松事件は「障害者」差別に基ずくデッチ上げであり、刑法第40条の中で、「聾唖者ノ行為ハ之ヲ罰セス又ハ其刑ヲ減軽ス」となっているにもかかわらず、(刑法第40条そのものは「障害者」の人権を認めない差別法である)「死刑」が強行されたのであって、この浜松事件の血の敗北の歴史をみすえなければ、赤堀さんを生きて奪還することができない。そういう悲愴感を私「聴覚障害者」は感じる。
そして、財田川事件再審開始決定にとびついた者に対して、激しい怒りを感じる。
赤堀斗争勝利の為に、全国の斗う皆さんと共に先頭にたって斗うことを決意する。
八王子赤堀さんと共に斗う会会員
6月冒頭、日帝・大平は、既成政党の全面的屈服の中で、元号法制化を強行した。私達は、これを天皇制・天皇イデオロギーのかつてない攻撃ととらえ、それは「障害者」との関係で、いかなる問題をもっているのかについて、しっかりと考える必要があると思う。
1930年代、天皇を先頭に日帝がアジア侵略戦争にむかう中で、ナチス断種法に学んでつくられた国民優生法・優生イデオロギーのもとに、「大和民族の優生を保持するため」「不良な子孫の発生防止のため」と、どれほどの「障害者」が迫害され虐殺されていったことか。
「障害児」を生んだ母親が、皇居の空をあおいで「陛下にわびる」という例は数知れない。
われわれは、こんにち再び、天皇制・天皇イデオロギー攻撃が、元号法制化をはじめ天皇の「日本の代表」としての政治的登場、日の丸、君が代の称揚、天皇制右翼の抬頭とすさまじい激化を示しているのに対し、断固たる態度をとらねばならないのである。
数年前、天皇伊勢神宮参拝の際に、県下の「精神障害者」が実に二〇〇人以上も予防拘禁され、一名が死をもって抗議するという事態がおこっているという。また今年5月末、天皇の来名に際して、第4回全国大会をひかえた全国「精神病者」集団をはじめ、県下の「精神障害者」に対して愛知県警による予防拘禁をねらった不当な調査、追尾・監視の弾圧が加えられている。
まさに天皇のゆくところ、「障害者」差別が激化し、弾圧が強化されるのである。天皇と「障害者」の共存はありえない。こんにち日帝が朝鮮、アジアの侵略戦争に突進しようとする中で、戦犯天皇ヒロヒトは、戦後30年間人民をいつわるためによそおってきた「老いたる生物学者」なる仮面をぬぎすてて、再び侵略戦争の先頭にたとうとしている。われわれ「障害者」こそこれを絶対に許してはならない。
この間、役所をはじめいたる所で、元号の使用が強制されている。
「万正一系の天皇制」なる皇国神話のもとに天皇を基準に時間を区切る(支配する)という元号の強要に、ぼくは非常に屈辱感と怒りを感じる。赤堀斗争、「障害者」解放闘争をたたかう仲間のなかにも、無自覚に元号を使用している部分が少なからず存在するが、これは主観的にはどうあれ、敵の攻撃に屈服するものと言わざるをえない。
「障害者」こそ先頭となって、虐殺に道をひらく天皇制・天皇イデオロギーと対決し赤堀闘争と、79年度養護学校義務化粉砕闘争を軸に、「障害者」解放闘争の力強い前進をかちとろう。
京都赤堀さんと共に斗う会会員
東京サミットの2日目の6月29日、国立ガンセンターに入院していた3才の「障害児」が母親の手によって虐殺されました。この子は生後すぐに眼を悪性のガンに冒され、その「前途を悲観して」母親が絞め殺したとのことです。またひとりの「障害児(者)」が「障害児(者)」であるといいう理由だけから殺されたのです。
しかも、それから一週間もたたないうちに、この母親の地域の婦人らが、「減刑嘆願」の署名を始めました。しかしこれは「健常者」たちの思い上りであり、安楽死法案を推進しようとしているのは、まさにこのような「健常者」たちの勝手な都合からに他なりません。
一方安楽死協会は、「末期医療に関する特別措置法」と名前をカモラージュした法案を提出しようとねらっています。彼らは、「ナチスのやったことは結果としてはよくなかったが、その思想は正しかった」などと平然と語って、「障害者」大虐殺をそそのかしています。
これだけ見ても、赤堀斗争をめぐる情況は、きわめて厳しいものがあります。親などの手によってますます明らさまに「障害者(児)」が殺されていっています。その頂点として、赤堀さんは「障害者」ゆえに国家と法の名において「死刑」の攻撃を受けているのです。
したがって、赤堀再審斗争を財田川再審決定と並列にひき比べて語ることは間違いです。赤堀さんに対しては、日本帝国主義の権力と差別社会実体の「障害者」抹殺の意志がこめられていることをいささかも見落してはなりません。裁判所当局は、財田川再審決定をも「民主的」ポーズを示すために大いに彼らの側から利用しようとしてくるに違いありません。
誰よりも赤堀さん自身が「谷口さんの場合は僕とは違うから」ときわめて冷ややかに見つめているではありませんか。赤堀さんのこの言葉自身を、わたしたちの獄外における赤堀斗争の非常な立ち遅れ(財田川再審請求斗争と比べても)に対する鋭い糾弾として受け止めねばなりません。
しかし、東京サミット粉砕の斗いや三里塚農民の不屈の斗いに示される人民の正義の力こそが斗いの勝利のカギです。斗う人民の内部にも「障害者」差別に対する無自覚、「障害者」に対する無理解は根深いものがあると思います。それだけになおいっそう、われわれは三里塚、狭山などの斗いとの連帯を強め、赤堀斗争・「障害者」解放の斗いとその質を心ある労働者、農民、学生などの中へ持ち込んでゆきたいと思います。
赤堀中斗委の会議へ赤堀さん自身が出席できる日が来るまで、力を合わせて斗い抜きましょう。
関東赤堀さんと共に斗う会会員
ぼくが、7・8全国連絡会議に参加し、各地闘う会や中闘委各部の報告を聞いて思いをあらたにしたことは、われわれ「障害者」は、なんとしても赤堀斗争に勝利しなければならないということ、そのためにさらに身を粉にして奮闘しなければならないということです。
この間の「障害者」解放闘争等にかかわる動きをみても、5月には日本安楽死協会の大会がひらかれ、そこで安楽死協会は、「価値ある生命」と「価値なき生命」を区別するという恐るべき内容をもつ安楽死法の法制化へむけて、「末期医療の特別措置法」の制定運動を展開することを決定しました。
また歴史的にも「障害者」抹殺と表裏一体をなす天皇制・天皇イデオロギーの攻撃―元号法制化が強行されるなかで、5月末、天皇が愛知県の植樹祭に来名した際に愛知県下全域の「精神障害者」に動向調査と大弾圧が加えられています。
さらに狭山差別裁判においては、再審開始にとってブルジョア法的にも文句のつけようがない新規かつ明白な証拠が、5月20日に弁護団から提出されたのに対しても、検察側は、「一学者の意見」などと無視・抹殺し、再審却下をうちおろそうとしていると聞きます。
そして赤堀差別裁判においては、第一審を担当した検事が、抗告審に補充されたというではありませんか。
また6月には、ガンの子供が母親によって殺されるという事件がおき、地域住民から親の減刑嘆願運動がおこる一方、警察も「温情あるとりあつかい」をすることを表明しています。
このように背筋も凍るような「障害者」抹殺の動きが強まる中で、このたび最高裁は、財田川事件の再審決定を下しました。これは「針の穴をらくだが通るよりむづかしい」と言われる再審闘争、とりわけ「死刑囚」の再審闘争に展望をおしひらいた重大な勝利であり、谷口繁義氏と多くの支援者の多大な奮闘のたまものに他なりません。心から喜びをともにしたいと思います。
しかし同時にわれわれは、昨年において司法権力が弘前助教授夫人殺し事件、加藤老事件に再審を開く一方、赤堀闘争、狭山闘争に対しては、その無実が会社会的に明らかであるにもかかわらず、許しがたい再審棄却の策動を強めてきたことをおさえておかなくてはなりません。こうした動きは、司法権力が「正義と真実に道を開いた」なるブルジョア・マスコミのキャンペーンにもかかわらず、彼らが、「障害者」や部落民を主体とした差別糾弾闘争として発展しつつあるたたかいに対しては、破壊の意図を露骨にしているものに他なりません。
赤堀氏や石川氏に死刑判決を下し長期にわたって獄中に幽閉している者はいったい誰か。司法権力にも「公正なる裁判」が期待できるかのような幻想をあおることを通して斗う隊列の武装解除をはからんとする攻撃を絶対に許してはなりません。財田川再審闘争の勝利のためにも、その再審開始決定を評価するあまり、いまひとつ司法権力がその中に貫かんとしている闘争破壊のもくろみを見誤ることなく対決してゆかねば、諸戦の勝利も敗北に転化されかねないと、危惧をいだくものです。
われわれは財田川再審開始決定の中でさらに明らかとなった古畑鑑定のインチキ性をすべての人々の前にあばきだし、赤堀斗争の勝利にむかって、力を尽して斗おうではありませんか。
最後に、全国連絡会議が、中斗委を全国の仲間と、直接意見を交換できる唯一の場であることから、もっと討談の場をもうけてほしいという希望を表明しておきます。
おわび―編集部より
編集部の都合で発行が遅れたことを、おわびします。万一もれている原稿があれば、次号に掲載いたします。
力を一つにし、一日も早く無実の赤堀さんを取り戻そう!
全国の仲間たち!
*作成:桐原 尚之