警視庁遺失物センターに保管されているスーツケースなどの落とし物=4月、東京都文京区
作家の向田邦子さんは落とし物の名人だった。現金をはじめハンドバッグ2個、懐中時計、傘に手袋。拾った物といえば犬猫や定期券で「計算するまでもなく、かなりの持ち出しになっている」とエッセー『わが拾遺集』にある。
▼作家の拾い物には当たりも。勤め先の会社で誰かが落とした手袋の片方を見つけた。偶然にも数日前、電車の中で片方だけ落とした物と同じ形の、黒革の逸品だ。すぐ庶務課に届け、落とし主が現れなければ「私に」との約束を取り付けたという。
▼拾った物を懐に入れない「正直さ」は、古今を問わぬ日本人の美質だろう。あなたが何かをなくしても確実に戻ってきます―。五輪・パラリンピックの招致活動で、世界に東京をPRしたのも記憶に新しい。全国の警察に届く拾得物は、コロナ禍の時期を除けば年々増えている。
▼警察庁によると、昨年は現金が228億円余り、現金以外の物が約3千万点に上った。世の中が日常を取り戻し、人出が回復したことを思えば当然かもしれない。外国人観光客も目に見えて多い。「落とし物」はこれからも増え続けていくだろう。
▼さりとて、美質だけでは片付けられない数字もある。拾得物の数には、犬や猫など約2万5千匹の動物も含まれている。飼い主が「捨て」たペットも少なくはあるまい。人としての大事なものまで置き捨てにされてしまったような、痛憤を禁じ得ない「命の落とし物」でもある。
▼黒革の手袋はその後、落とし主が現れず、晴れて向田さんの物になった。喜んで自宅に持ち帰ったところ、拾った手袋と捨てずに取っておいた手袋の片割れは、どちらも左手用だったそうである。やはり落とし物は、元の持ち主に戻ってこそ幸せなのだろう。
新装版 父の詫び状 (文春文庫) ペーパーバック 文庫 – 2005年8月3日
向田 邦子(著)