向田さんの「落とし物」と「拾い物」(2024年5月29日『産経新聞』-「産経抄」)

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警視庁遺失物センターに保管されているスーツケースなどの落とし物=4月、東京都文京区
 作家の向田邦子さんは落とし物の名人だった。現金をはじめハンドバッグ2個、懐中時計、傘に手袋。拾った物といえば犬猫や定期券で「計算するまでもなく、かなりの持ち出しになっている」とエッセー『わが拾遺集』にある。
▼作家の拾い物には当たりも。勤め先の会社で誰かが落とした手袋の片方を見つけた。偶然にも数日前、電車の中で片方だけ落とした物と同じ形の、黒革の逸品だ。すぐ庶務課に届け、落とし主が現れなければ「私に」との約束を取り付けたという。
▼拾った物を懐に入れない「正直さ」は、古今を問わぬ日本人の美質だろう。あなたが何かをなくしても確実に戻ってきます―。五輪・パラリンピックの招致活動で、世界に東京をPRしたのも記憶に新しい。全国の警察に届く拾得物は、コロナ禍の時期を除けば年々増えている。
警察庁によると、昨年は現金が228億円余り、現金以外の物が約3千万点に上った。世の中が日常を取り戻し、人出が回復したことを思えば当然かもしれない。外国人観光客も目に見えて多い。「落とし物」はこれからも増え続けていくだろう。
▼さりとて、美質だけでは片付けられない数字もある。拾得物の数には、犬や猫など約2万5千匹の動物も含まれている。飼い主が「捨て」たペットも少なくはあるまい。人としての大事なものまで置き捨てにされてしまったような、痛憤を禁じ得ない「命の落とし物」でもある。
▼黒革の手袋はその後、落とし主が現れず、晴れて向田さんの物になった。喜んで自宅に持ち帰ったところ、拾った手袋と捨てずに取っておいた手袋の片割れは、どちらも左手用だったそうである。やはり落とし物は、元の持ち主に戻ってこそ幸せなのだろう。
 
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新装版 父の詫び状 (文春文庫) ペーパーバック 文庫 – 2005年8月3日
向田 邦子(著)
宴会帰りの父の赤い顔、母に威張り散らす父の高声、朝の食卓で父が広げた新聞…だれの胸の中にもある父のいる懐かしい家庭の息遣いをユーモアを交じえて見事に描き出し、“真打ち”と絶賛されたエッセイの最高作。また、生活者の昭和史としても評価が高い。1981年航空機事故で急逝した後も根強い人気を誇り、太田光氏、星野源氏はじめ多くの新たな熱烈なファンを持つ著者の第一エッセイ集。目次
父の詫び状/身体髪膚/隣りの神様/記念写真/お辞儀/子供たちの夜/細長い海/ごはん/お軽平/あだ桜/車中の皆様/ねずみ花火/チ​​ーコとグランデ/海苔巻の端っこ/学生アイス/魚の目は泪/兎と亀/お八つの時間/わが拾遺集/昔カレー/鼻筋紳士録/薩摩揚/卵とわたし/あとがき/ 解説 沢木耕太郎