シヤチハタ社長 舟橋正剛氏 58
朱肉の要らないハンコの代名詞となったシヤチハタ。コロナ禍で広がった押印廃止の荒波を乗り越え、「しるしの価値」の深掘りを進めている。舟橋正剛社長に聞いた。(聞き手・小川直樹、写真・青木瞭)
<インキ浸透式のネーム印市場のシェア(占有率)は首位。1968年の発売以来、累計出荷本数は1億9000万本を超えた>
ネーム印を作っているメーカーだと思われているのですが、ほぼほぼ素材メーカーなんですね。
スタンパーに使っているゴムを練るところから始まり、薬剤や塩を混ぜて理想のゴムを作る。インキのレシピも100%自社ですし、ゴムを成型するための金型も自社で作っています。そういう素材を組み合わせて製品にしてお届けするビジネスモデルです。
シヤチハタはスタンプ台のふたを開けても表面が乾かない「万年スタンプ台」を開発したのが始まりです。戦後の高度経済成長期には、ゴムにインキを染みこませて必要な時にポンポン押せる「Xスタンパー」を発明し、「ウィンドウズ95」が出た95年には電子印鑑システム「パソコン決裁」を発売しました。
自社のヒット商品を否定するような新商品を出しながら成長していく。メディアの取材でそんな美しいストーリーを作っていただき、非常にありがたいなと思っています。
現実は、現状を否定するというよりは、危機感、危機感の連続で、次の柱にチャレンジしてきた歴史です。スタンプ台も、スタンパーも、電子印鑑も共存しています。結果として良いバランスで成長してきていると思っています。
<コロナ禍の時は「押印廃止」の逆風が吹き付けた>
定番商品では少なからず悪い影響はありましたが、コロナ禍でリモートワークが広がったこともあり、電子印鑑のクラウドサービスを数か月間、無料開放したんですよ。
すると、「これは便利だ」と認知度が高まったものですから、広告を大量投下しました。それでサービスの利用に火がついて、それまで2億円にいかないくらいの売り上げだったのが、5、6倍の10億円規模になりました。
我々はIT企業ではありません。IT企業のサービスと同じ安全性を確保しながら、どう差別化するかを考えてきました。お客様から「承認したかはログを見ればわかる。ハンコはいらないよ」と言われればハンコは使っていなかったかもしれません。
ですが、デジタル上でも個人名のハンコが押してあることで誰が承認したか、ぱっと見て判断できる。これまでの紙の文書と同じ方が便利だとのお客様の声が圧倒的に多かったんですね。
新しいソフトを入れると、仕事のやり方を全部変えないといけないことが往々にしてあります。我々のサービスは、紙で使ってきたものをデジタルにするものなので、身近な仕事のやり方を変えず、手軽にDX(デジタルトランスフォーメーション)に取り組めます。「BPS=ビジネスプロセスそのまんま」を合言葉にしています。
ネーム印は、大企業さんから中小企業さんにも使ってきていただいています。デジタルになっても、「シヤチハタ便利じゃん」と思ってもらわないと、使命を果たしたことにならないと思っています。
<最初の就職先は大手広告会社だった>
新商品の販促プロモーションからイベント、広告を含めたマーケティングを考える部署に配属されました。けっこうむちゃだなと思ったのは、入って間もないのに、何億円もする案件を好きにやってみろと任せるんですよね。
ある時、プレゼンテーション(提案)が全然通らない案件がありました。今回はだめかなと思いつつ最後のプレゼンに臨んだら、すんなり通ったんですね。大きな案件だったのでうれしくて。今まで全然だめだったのになぜかと思っていたら、あとで私の上司が広告主側と裏で交渉してくれていたことを知りました。
アメとムチというと、あまりにシンプルすぎるのですが、こうすれば人は育つということを体感しました。
<シヤチハタに転じたきっかけは、父の舟橋紳吉郎社長(現会長)の話だった>
子どもの頃から家業を継いでくれと全く言われずに育ちました。グローバルに仕事ができるビジネスマンになりたいと好き勝手にやらせてもらっていました。
ある時、父と食事をした時だったと思いますが、「文具の流通が大きく変わってきている。もし将来的に帰ってくるつもりがあるんだったら、この変革期を肌で感じないことは大きな損失だろう。(シヤチハタに入るなら)今がそのタイミングだがどうだ」と話がありました。
父はあれやれ、これやれと言う人ではなかったものですから、これはよっぽどだなと。それで帰る決意をしました。
<2008年のリーマン・ショック後、経費削減の波でネーム印を含む文具は会社支給から個人買いが広がった>
そこで便利に使える商品として、保育園に預ける紙おむつの名前書きをスタンプで済ませる「おむつポン」を発売しました。コロナ禍の時に売れたのは手洗い練習スタンプの「おててポン」ですね。せっけんをつけて約30秒洗うと落ちる仕組みです。
工業用途にも力を入れています。橋などの建設現場で使う「ボルトライン」は増し締め確認用のしるしをペンでつけるのが大変だという話からスタンプでしるしをつける商品です。現場を見せていただくことで提案できることはまだたくさんあると思います。
商品化を前提に新しいプロダクト(製品・デジタルサービス)のデザインを募る「シヤチハタ・ニュープロダクト・デザイン・コンペティション」もスタートから25年になります。昨年は1000件以上の応募がありました。既成概念をぶち破る提案を期待しています。
オフィスで使われるスタンプは将来、半分以下になるかもしれませんが、その分、デジタルサービスが増えるでしょう。それでもどちらかに全部移行することはないと思っています。消費税のインボイス(適格請求書)制度導入や、電子帳簿保存法の改正ではスタンパーが売れました。
舟橋正剛氏
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〈NUMBERS〉100周年
シヤチハタは1925年に舟橋商会として名古屋で創業し、2025年に節目の100周年を迎える。実は自身も還暦を迎える年でもある。次の100年に向けた第二の創業と位置づけ、主力のインキ浸透式のネーム印の次の柱となる商品を作り出す変革の通過点ととらえている。
~舟橋さんを知るもう一つのキーワード~
舟橋正剛氏の愛読書『松扇論語』。感銘を受けた言葉を表紙などに書き込んでいる
愛読ボロボロの「松翁論語」…松下幸之助氏の言葉を論語風にまとめた「松翁論語」(PHP研究所)の著者で、松下氏晩年の23年間、直接指導を受けた江口克彦さんと20年来の親交がある。今も毎月直接会って話を聞く機会があり、感銘を受けた言葉や、その背景をメモしているうちに本はボロボロになってしまった。人生観を変えた愛読書だ。
◇舟橋正剛(ふなはし・まさよし) 1965年愛知県生まれ。92年米リンチバーグ大学院修了。93年電通入社。97年シヤチハタ工業(現シヤチハタ)入社。常務、副社長を経て06年から現職。一般社団法人未来ものづくり振興会代表理事も務める。