鈴木義男(よしお=写真(上)=という人物をご存じでしょうか。その名前から親しみを込めて「ギダンさん」と呼ばれています。終戦直後、衆院議員として帝国憲法改正案委員小委員会で新憲法制定に向けた審議に関わり、「平和憲法をつくった男」と言われています。
ギダンさんは1894(明治27)年、福島県白河町(現白河市)のキリスト教伝道師の家に生まれました。仙台にあるキリスト教系の東北学院普通科(中等部)から第二高等学校、東京帝国大学法科大学法律学科に進み、卒業後は東京帝大助手、文部省在外研究員としての欧米留学を経て、1924(大正13)年、東北帝大法文学部教授に任命されます。
将来を嘱望されたギダンさんですが、大学にも押し寄せた軍国主義教育に反対したため、30(昭和5)年に教授の職を追われます。その後、戦前戦中は弁護士として治安維持法違反などに問われた人たちの弁護に奔走するなど、軍国主義に抗(あらが)い続けました。
鈴木義男を研究し、「平和憲法をつくった男 鈴木義男」(筑摩選書)を著した東北学院大学名誉教授の仁昌寺正一(にしょうじしょういち)さん=写真(下)=は「ギダンさんは幼いころから身近にあったキリスト教を通じて西洋流の自由、平等、人道主義に触れ、弱い人の立場に立つ人格が形成された」と話します。
◆まず平和愛好宣言から
後の首相、芦田均を委員長とする小委員会で9条の審議が始まったのは、前文から逐条審議を始めて3日目の46(昭和21)年7月27日。連合国軍総司令部(GHQ)案を基にした政府案には1項に戦争放棄、2項に戦力不保持が明記されていましたが、「平和」という文言はありませんでした。
95(平成7)年に公開された小委員会の速記録によると、ギダンさんは「唯(ただ)戦争をしない、軍備を皆棄(す)てると云(い)うことは、一寸泣言(ちょっとなきごと)のような消極的な印象を与えるから、先(ま)ず平和を愛好するのだと云うことを宣言して置いて、其(そ)の次に此(こ)の(戦争放棄の)条文を入れようじゃないか」と提案し、各委員が賛同します。
これを受ける形で芦田氏が修正案を提示。議論の末、1項の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」、2項の冒頭に「前項の目的を達するため」との文言が挿入され、今の9条となりました。
ギダンさんが9条に平和を明記するよう訴えたのは、かつて留学した欧州で第1次世界大戦の惨禍を目の当たりにして、平和の大切さを痛感し、国際協調による平和の実現と戦争違法化政策の動きを学んだからにほかなりません。
それが新憲法制定の場で生き、戦後日本の「平和国家の歩み」の確かな礎を築いたのです。
ギダンさんはその後も憲法9条の積極的意義を説き、再軍備や旧日米安全保障条約の締結時にも反対の論陣を張ります。改憲自体は否定しませんでしたが「世界史を逆転させる重大な退却であるから…慎重の上にも慎重でなければならない」と論文に記します。
◆原点に返り理想追求を
「平和主義に変わりない」と政府は繰り返しますが、ギダンさんが思い描く平和国家とは異なる姿がそこにはあります。仁昌寺さんはこう警鐘を鳴らします。
「日本国民だけで310万人、アジアで2千万人という犠牲を出し、二度と戦争を起こさないという思いで今の憲法ができた。現状追認で抑止力を強化すれば、いずれ偶発的な衝突が起きる。国際平和を誠実に希求するという原点に返り、理想を追求すべきだ」
武力でなく外交を駆使して平和を守る決意があるのか。泉下のギダンさんは今も問い続けます。